Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

成子天神社

12月19日記載

 

頸椎捻挫の痛みがなかなか取れないのでMRIを撮ることになった。

MRIは今年に入って二回目だ。

ドンガンドンガン煩くて狭いドームは嫌だけれど、終わったら美味しいものを食べて帰ろう。

 

新宿のビルの谷間に一軒家

自転車に子供を乗せたお母さんがやってきて入っていった。

入れ替わりに中から子供を連れてお母さんが出てきた。

保育園だ。

新宿で働くお母さんにとっては、なくてはならない施設なのだろう。

 

久しぶりのラー油の蕎麦です。

「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」西武新宿店

代々木店が撤退してしまったので、食べたくなるとここまで来るのです。

 

帰りがけ神社を見つけたので立ち寄った

整備された長い参道を進むと

恵比寿さんがいらした

 

反対側には、

大黒さん

 

立て看板があった

江戸・東京の農業 鳴子ウリ

成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。

記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615〜24)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、当鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。

マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。

元禄11年(1698)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。

鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で一・八寸(約5.4cm)。末で二寸(6cm)余りの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熟すと甘い香りと共に黄色く色付く。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。 

平成9年度JAグループ

農業協同組合法施行五十周年記念事業

 

成子ではなく、漢字が《鳴子》になっている。

 

 

由緒書があった

由緒   祭神 菅原道真公

千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。

このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。

平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。

その後、徳川三代家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十二年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。 

 

やはりこの辺りは《柏木鳴子》という地名だったようだ。

地名のことを丁寧に調べていらっしゃるサイトにたどり着いた。

edo.amebaownd.com

 

江戸町巡り管理人さんによれば、

「源左衛門という酒屋が店頭に鳴子を下げ、来店を知ったとするもの(備考)、水田から鳥獣を追い払うのに鳴子を設置したのによるものとあるが、後者の方が有力である 」とのこと。

由来からいえば《鳴》の字なのだろうが、それがいつから《成》の字があてられるようになったか、またその理由についてはわからなかった。

しかしこの江戸町巡りさんりサイトは素晴らしい。

東京の色々な地名も丁寧に調べていらっしゃるのでとても為になる。これからも拝見したいと思う。

 

 

 

次にみつけたのは毘沙門天さん

 

境内の赤い門をくぐった左手にもう一体

弁財天さん

 

右に目を転じると、福禄寿さんがいらした

それにしても背後の建物でかっ

ずずずーん

高層マンションが建っているのは本殿の真横

社殿を見下ろしている、なんとど迫力なことよ

 

本殿の脇に力石があった

成子天神社の力石

力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。

七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約150㎏)から五十八貫余(約218㎏)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。

製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。 

 

 

撫で牛があったけれど、このご時世 ( コロナ ) で撫でてはダメだって。

 

さあ、七福神の続き

本殿とマンションの間の、北に抜ける参道の右側に寿老人みつけた。

 

それにしてもここの敷地。

どこからマンションで、どこが境内だか境がない。

写真の左がマンション、右が社殿⤵

ここから先はマンションで立ち入り・通り抜け禁止。

マンションの住民は、駅から境内を通ってマンションに入るのに逆は駄目なの。

 

ここは多分、マンションの敷地、、、、あっ山が見える。

富士塚ですってよ

なんとかと煙は、と高いところに上りたくなる私。

早速登ってみよう、あっ、登山じゃない参拝だわ。

 

成子天神社の富士塚

大正九年(1920)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。

富士塚は江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。 成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸富士成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。 

 

ここが入口かな?

 

登ってみる

小山の周りをグルグル巡るスロープと階段を登っていく

かなり高くなってきた。

下を見るとちょっと怖い

柵がないし踏み外したら溶岩でかなり傷だらけになりそう。

痛いだろうな。

 

鎖を助けに一歩一歩慎重に。

 

お社が見えてきた。

背後の建物の方が高いのは興ざめだが仕方ない。

なにせここ、西新宿の高層ビル街にあるんだから。

 

登った、ということは降りなければいけない。

こんな所を登ったのか・・・・

落語「富士詣り」にこんな馬鹿々々しいセリフがあった。

 「山ってのは登ったり下ったりしながら登るのがいいんだよ。

 (富士山は)端から仕舞いまで登りでしゃれにならない。

 できれば下りながら頂上へ着きたい」

 

あっという間の富士詣だったがやっぱりこの富士塚、マンションのお庭みたいだ。

 

左が社殿で、右がマンション

神社の境内を借景にしてしまって、なんと豪奢なマンションだろう。

振り返ってみても、贅沢な空間。

 

とても美しく整備されているが、少し味気ない気もする。

明治神宮は自然林が沢山あるし、地元の神社も土が沢山あるからその方が好きだ。

でもここにそれを望んでもいけない、なにせ新宿副都心だもの。

本殿と西新宿の高層ビル

 

古い手水が残っていた

石の手水にツワブキ。

こういう素朴な所があってホッとした。

 

そういえば七福ですが、

帰宅してから数えたら一体足りませんでした。

恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人まではあったんですが、

もう一体布袋様を通り越したようです。

神社のHPを見たら布袋様ここにおわしました。

境内のご案内|【公式】ーめぐり天神ー 成子天神社・東京都新宿区西新宿

 

 

本日の昼ごはん

 

本日の外食

 

本日の夜ごはん