「フランケンシュタイン」の映画を観た。※1931年版
驚いた。
まったく原作とかけ離れている。
というか、原作を読む前に私が「フランケンシュタインとはこんな感じだろう」と思ったものはこの映画のイメージだった。
物語は、フランケンシュタイン博士 ( 映画ではヘンリー・フランケンシュタインという名前 ) が、助手のせむしの男と墓場を掘り出すところから始まる。
彼はもう人造人間制作にとりかかかっていて、今日も新鮮な死体を入手すべく、張り込んでいたのだ。
手に入れた死体を石塔のアジトに運ぶヘンリー。
一方、婚約者のエリザベスは友人ヴィクターと一緒に、ヘンリーの恩師-ウォルドマン教授を訪ねる。
ここで、ヘンリーが神を冒涜する生命創造の実験に手を染めていることを聞く。
エリザベスと教授とヴィクターは、ヘンリーがいる塔で、実験を立ち会うことになる。
嵐の雷光を利用して高電圧を浴びせられた死体は命を得て目覚め、ヘンリーは狂気乱舞する。
それがこの姿
「フランケンシュタイン」といえば、このイメージといわれる有名なビジュアル。
教授は生き返った怪物を破棄するように主張するが、ヘンリーは実験を拒否。
しかし、助手が盗んできた脳が殺人者のものだと聞き戸惑いは感じる。
その時、地下室から叫び声が聞こえ、地下室に行くと助手は怪物に殺されていた。
こんな風に。
怪物は自分を痛めつける相手に反撃して殺してしまうといった、知能は低い状態だ。
物語の中盤、自分を恐がらない少女から花を貰って嬉しい顔をするも、少女への愛情の示し方がわからずに殺してしまう。
盲目の老人のバイオリンを聞き、音楽の素晴らしさにうっとりするシーンでは、感情が芽生え始めることが感じられる。老人からたばことワインを振舞われ、「君は友だちだ」と言われて幸福な気分になるが、村人の邪魔が入り、老人との親交は身を結ばない。
結局、少女殺しに憤った村人たちの《怪物狩り》が始り、逃げ惑った怪物は風車小屋に逃げ込み、火を放たれ燃えさかる風車小屋で死んでしまう ( 死んだだろう ) というところで物語は終わる。
要するに、悲しくもなんともないのだ。
あの原作から、ホラーの要素だけを切り取ったものだけれど、ひとつも怖くはないし、
フランケンシュタイン博士も研究に対する欲望はみえるが、友人やエリザベスに打ち明けられないといったシーンがないので、罪悪感は映画には描かれていない。
怪物も善悪がわからずただ逃げ惑うだけで、原作にある怪物の《愛されたい》という欲望や、苦悩などの心理描写がないので憐憫も抱けない。
観ていて、どこに気持ちのもっていけばわからないような映画だった。
ところがこれが世界中に大ヒット
《フランケンシュタインというのはこういうもの》と、私の記憶に摺り込まれたのも、
この映画が人気だったからかも知れない。
ユニバーサル映画は、第二作「フランケンシュタインの花嫁」を制作。
ここで怪物は初めて、言葉を覚える。
前作で 焼け死んだと思われていた怪物は実は生きていて、更に頭のオカシナ科学者が出て来て、その科学者に「君に花嫁を作ってやる」とそそのかされ、二人でヘンリーに女の人造人間を創らせるという話。
ヘンリーに作ってもらった花嫁は、怪物の顔を見てキャーーと騒ぎ、
拒否された怪物は傷ついて花嫁とオカシナ科学者を道連れに、塔に火をつけて爆死する。
前作より多少 知力と感情が増し、愛するということを教わったものの、
やはり誰からも愛されない自分に傷ついてしまうというくらいにしか、
怪物の心裡を描かれていなかった。
これも前作同様 大ヒットしたらしいが、アメリカ映画はこんなことで良いのだろうか と思ってしまった。
因みに。
敬愛するイギリスの俳優ケネス・プラナーが、1994年に「フランケンシュタイン」を制作・主演している。
フランケンシュタイン (1994年の映画) - Wikipedia
こちらの方はかなり原作に添って丁寧に作られているようだし、メンバーも豪華だ。
- クリーチャー ( 怪物 ) ⵈⵈ ロバート・デ・ニーロ
- フランケンシュタイン博士 ⵈⵈ ケネス・プラナー
- エリザベス ⵈⵈ ヘレナ・ボナム = カーター
キャスティングだけ見ても、絶対に観たいと思わせられた。
ネット配信はしていないようなので、ツタヤディスカスにDVDレンタルをし、
現在届くのを待っている。
本日の昼ごはん
金ちゃんラーメン
本日の夜ごはん
三品盛りは、塩辛、もずく、くらげ。
これと枝豆があればお酒はすすむ
厚揚げ焼いて醤油をかけたもの、ひじき煮、生わかめとアボカドのサンバル炒め
ここでもう一品 ブルスケッタ。
フランスパンの焼き加減はバッチリ
先日のオイルサーディンの缶の方が、今回のより美味しかった。
備忘録にメモメモ。