なんでかわかりませんが、古書に古写真、古地図が大好物です。
行った場所や読んだ本など、なにかにつけその昔がどんなだったか想像するのが
楽しくて仕方ない。
今日、調べたくなったのは上野広小路あたりのこと。
いきなり古い写真ですけど、こんな場所です。⤵
上の写真は昭和初期の絵葉書なんですが、
どの辺かというと、、、上野駅から御徒町にかけてのエリアです。
左上が不忍池。
その、右側に位置するのが上野公園で、その右が上野駅。
もう少し古い地図⤵ こちらは明治の頃の上野。
現在の地図は、こちら⤵
上野広小路を探りたくなったキッカケは、先日行った鈴本演芸場と伊豆栄と、
先日読了した浅田次郎さんの「天切り松 闇がたり」全5巻。
面白かったです、天切り松
留置場に現れた不思議な老人は、六尺四方にしか聞こえないという夜盗の声音「闇がたり」で、
遙かな昔を物語り始めた。
時は大正ロマン華やかなりし頃、帝都に名を馳せた義賊「目細の安吉」一家は、
盗られて困らぬ天下のお宝だけを狙い、貧しい人々には救いの手をさしのべる。
義理と人情に命を賭けた、粋でいなせな怪盗たちの胸のすく大活躍を描く傑作悪漢小説。
本の中には今でもある人気店が数々登場します。
伊豆栄の鰻や、浅草神谷バーの電気ブランなどなど。
よんばばさん、面白い本を紹介してくださってありがとうございました。
今回は一週間の入院に「天切り松」3・4・5を持ち込み、勿体なくも読み切ってしまいました。
天切り松の世界をもっとゆっくり味わいたいので、たぶん読み直すことでしょう。
まあ、そのお話は尽きませんので、またの機会とすることにして。
単純です私は。
天切り松を読んで、彼らが闊歩した上野、広小路あたりを探ってみたくなったワケです。
広小路については、以前から興味があり「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和」や、小島政二郎さんのエッセーや、佐多稲子さんの『私の東京地図』などを繰り返し読んでいましたので、それを下地に「火災保険図」や「古はがき」を見ながら遊んでみたいと思います。
「私の東京地圖」著:佐多稲子
この本は、佐多稲子さんが上野池之端「清凌亭」で女中をしていた頃の話や、向島のメリヤス工場で女工をしていた頃の話や、丸善時代、芥川龍之介や中野重治らと出会った頃の話などを書き連ねたものです。
彼女が住み馴染んだ東京の街、戦禍で失われた街の様子が生き生きと伝わってくる秀作で、私のとって昔の街をたどるバイブルのような一冊です。
その中から、特に今回は池之端にあった「清凌亭」あたりの様子を、
本文と火保図と今昔の写真を見比べながら楽しんでみます。
東京の街の中で、ここは私の縄張り、と、ひそかにひとりぎめしている所がある。
上野山下の界隈で、池之端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。
生まれた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じようとしているのである。
「下町」という章は、上野の昔を知るのに恰好な資料です。
だるま・鳥鍋 ( 支店 ) ・世界
上野の山は丁度お花見の季節であった。駅前から山下へ出てゆくあたり、今は京成電車の会社の建物の形だけ残っている、このあたりに、その頃は、五條様という神社を挟んで、間口の広い、とっつきに寛やさな梯子段のついた料理やが並んでいたものだ。
赤い衣の達磨の絵のある看板は、一品料理の「だるま」、そのとなりは「鳥鍋」の支店、その先にずっと広く、奥の庭に鶴の遊んでいるのが見えるのは肉屋の「世界」。どこでも、半被に腹かけの下足番が、きっちり脛をつつんだ黒股引の先に白い鼻緒の草履を突っかけて、独特のだみ声で、
「いらっしやイ」と、うたうように呼びつづけている。
五條様ってどの辺かというと、明治の地図では黒丸のところにありました。
※ 明治の頃というのは、その後移されて今はここにはありません。
入り口が広小路側にあるので、「神社を挟んで、料理屋が並んでいた」というのだから
丁度『條』の字のあたりが「だるま」「鳥鍋」で、神社の入り口の下『町』の字のあたりが「世界」ではないかと思われます。
「古老がつづる 台東区の明治・大正・昭和 Ⅱ」上野公園周辺についてで、星野平次郎さんは、こう語られています。
京成聚楽を上野駅の方からくると、山下のカーブになっているところは、「だるま」「甲子」「世界」「米久」これらの間に五條天神があったんです。
「世界」は「雁鍋」のあとで、菜漬け飯で売り、池に鶴がいて、そこの帳場の人が、のちに「鳥鍋」を開店したといいます。
ほほう。「池に鶴がいる世界という店」。佐多稲子さんの文章と一致しました。
こちらが昭和10年に作成された「火災保険図」です ⤵
※ 地図の向きは、通常のものと違い上野駅 (北) が左です。
ちょっと見にくいけれど、京成聚楽、米久食堂、甲子飯店、読めない、世界本店、不動銀行の文字が。
昭和10年には「五條天神社」も「だるま」も「鳥鍋の支店」もないようです。
この写真を見てください ⤵ 上の火保図と同じ場所なんですが、
米久、キノエネ、不動銀行の文字がありました!!!
ちなみに、この写真は「世界」本店 ⤵
そして、現在の写真
さっきの古写真と反対方向 ( 南から上野駅方面へ ) から撮ったものですが、
二階建てだった米久、キノエネ、世界は姿を消し、8階建ての商業ビルが並んでます。
清凌亭
さて、佐多稲子さんが勤めていたという「清凌亭」は、京成聚楽の反対側にありました。
不忍池に面しているブロックです。
火保図で見てみるとこの界隈 ⤵
ズームをしてみましょう。
あったあった!!!
赤丸が、稲子さんが仲居をしていたという「清凌亭」です。
この辺りは特に面白そうだ。
佐多さんも懐かしいようで、一軒一軒とても細かく回想されています。
「下町」の章では、お店の人々の様子が生き生きと書かれていますし、
「古老がつづる」の星野平次郎さんのお話にも色々と書かれているので、ひとつひとつ見ていきます。
丸万
星野さんのお話から
不忍池側は「揚出し」、そこから表通りに二軒待合があって、次に「丸万」に入る石畳、その先が「みやこ座」、少しして「山下」がありました。
「丸万」は大阪からきた料亭で、二階が座敷になっていて、池が見渡せたんです。
「私の東京地図 下町」には
「揚出し」から山の方へ戻ると、今の上野日活館、その頃の「みやこ座」があって、広い道を前にして、一軒だけの活動写真館である故か、大風にひっそりとしていた。この間に大阪風の魚すきを看板の「丸万」が黒板塀の造り。
丸万について調べていたところ、
都議会議員の上田令子さんのひいおじい様が、「東京丸万」の開業者だとわかりました。
上田さんのブログに、こうありました。
父方の実家が営んでいた魚すき料理「丸万本家」は、大阪南西櫓町 ( 現道頓堀)で1864年 ( 元治元年 )、禁門の変の年に開業。
商売熱心な大阪商人らいく、東京奠都に商機を見いだし、1909年に曾祖父が上京して上野・池之端に出店。
東京帝国大学や東京芸術大学から近い地の利に加え、ハイカラな関西料理が江戸っ子に人気を博したという。
森鴎外の小説にも登場し、伊藤博文、岡倉天心、横山大観ら時の政財界・文化人が来店して繁盛していた。
ところが関東大震災 ( 1923年 ) で、店は消失。祖父母は不屈の精神で復興を果たし、父親が27年に生まれた。商売が再び軌道に乗り始めた矢先、今度は第二次世界大戦が勃発。44年には決戦非常措置要綱による料理店閉鎖命令を受ける。
そして東京大空襲で、またしても店が消失してしまった。
現在の写真⤵
石畳の先にある「丸万」は、こんな景色に変わりました。
「丸万」は、オークラシアターという成人映画の映画館になっていました。
揚出し
平野さんの話より
「揚出し」は、豆腐や惣菜をちょっと油で揚げたのが特徴で、朝の五時頃から店をあけ、ちょうど上野駅についた人が、早朝からここに上がって、朝風呂、朝酒という習慣になりました。
その他では、三河島の火葬場の帰りに酔ったもんです。
昔は、火葬は前の日にもっていって、翌日、骨をもらいにいったんです。
明治十二年に揚出しから火事が出て、仲町にも及んだことがありました。
「揚出し」は、画家の小糸源太郎さんの生家で、小糸さんのお母さんが嫁入りの時は、うちのおやじが玄関に大提灯をぶらさげて迎えたそうです。
源太郎さんも帳場に座ったことがあるはずです。
書画屋 ( 絵葉書屋 )、煙草屋
「私の東京地図 下町」より
「丸万」の入り口わきに、陶器なども飾った書画屋の空間の多い飾り窓。「みやこ座」の右わきには、赤毛氈を店先に垂らして絵葉書を売っている小店がある。ここでは煙草も売っている。煙草屋に代わる代わる座る、難しげな顔の小母さん、愛嬌よしの娘、色の黒い銀杏返しの女、三人とも私はこの前を通る度に笑顔で挨拶を交わす仲である。
大箱ごと敷島や朝日を買いに行って、愛嬌よしの娘としばらく話すこともある。
娘たちは、私の奉公先の内輪の噂を聞きたがる。すると私は、自分が奉公人だということを意識させられて厭な気になる。
この「絵葉書屋」には、しかし、萬龍とか、下谷の榮とか、当時の美人芸者の写真などはない。そういう芸者の写真や、小唄入りの絵葉書を売っているのは、もっと広小路よりの、博品館のとなりにある絵葉書屋である。山下のこの絵葉書屋には、文展の美術絵葉書ばかり売っているのであった。清方や輝方の美人画が、すべすべに光沢を持って、それでいて柔らかく写されていて、ほっと私はため息をつくほど眺めていることがあった。
山下・空也
「私の東京地図 下町」より
煙草屋の次は何か素っけない感じの「山下」という大きな料理店、そして次は「藪そば」、そのとなりが、「空也最中」の、瓢箪を竹竿に結びつけて差し出してある看板。茶室めいた造りの、塵ひとつとどめない畳の上に、菓子の見本を入れた重箱の置いてあるきり、白い障子のほのかな明かりが射し入っているほどの静かさで、引きつめた丸髷に結った二人の中年の婦人が、低めの帯を結んだすらりとした姿で、ひっそれと立ったり座ったりして客に対している。
最中の袋は、引きのある黄ばんだ和紙で、まん中に空也の朱の印がある。
古老がつづる 台東区の明治・大正・昭和 Ⅰ 斎藤清太郎さんの話
「山下」は古いんですよ。料理屋で天ぷら屋じゃなかった。
再び 「私の東京地図 下町」より
「山下」や「鳥鍋」には場所前になると、相撲の太鼓がトトントン、トトントン、と廻って来て、店先で、東西の取り組みを唄いあげて行った。
「山下」の主人は四十がらみの、役者の誰かをもっと苦味走らせたような、こわいものなしといった凄みのある男ぶりで、玄関に立って、うしろ手のままでその取り組みの読み上げられるのを聞いていた。そのうしろを女中がすり抜けるようにしてゆく。さわやかな初夏の風に流れる取り組みの歌声は古風な懐かしさだった。笑い顔にもならず突っ立っていた料理屋の主人の尊大な表情は、妙に目に残るものだった。この家の主人だけでなく、他の店の同年配の主人たちにも、どこか似よった、一味通じる放漫な傲慢な苦味走った表情があった。
ということで、「私の東京地図 下町」はまだまだ続きますので、
今日のところはこの辺で。この続きはまた近いうちにアップしたく思います。
「もういい」って? そんなことをおっしゃらず、どうかお付き合いお願いしますよ ('◇')ゞ