池之端にあった老舗和菓子屋の「空也」さんのことに興味を持ち、
そこから先日お話した福島慶子さんを知ることとなったが、
そのキッカケになったのが、樋口修吉さんが書かれた『老舗の履歴書Ⅰ』でした。
表紙の右上は、銀座の空也の写真でしょう。
残念ながら、池之端時代の写真はなかったからと思われます。
創業百年を記念して作成された木版画
これは昭和59年、山高登さんの木版画です。
山高さんも興味深い。
現在の風景がこちらです。
ホテル観月荘が空也のあった場所。
2014年12月9日撮影
当時の地図はコチラ⤵ 〇印のところが空也です。
佐多稲子「私の東京地図 下町」より
煙草屋の次は何か素っけない感じの「山下」という大きな料理店、そして次は「藪そば」、そのとなりが、「空也最中」の、瓢箪を竹竿に結びつけて差し出してある看板。茶室めいた造りの、塵ひとつとどめない畳の上に、菓子の見本を入れた重箱の置いてあるきり、白い障子のほのかな明かりが射し入っているほどの静かさで、引きつめた丸髷に結った二人の中年の婦人が、低めの帯を結んだすらりとした姿で、ひっそれと立ったり座ったりして客に対している。
最中の袋は、引きのある黄ばんだ和紙で、まん中に空也の朱の印がある。
ここに、さきほどの絵のお店があったんですね。
「瓢箪を竹竿に結び付けて差し出してある看板」 確かに瓢箪見えます。
あら、二階の勾欄も瓢箪になってます。
ところで、老舗の履歴書を読んでいて、ビックリしたことがありました。
帰国後まもない昭和三年 ( 1928 ) に彦助が享年五十六で他界し、家督を継いだ彦一郎は、数寄屋大工の木村清兵衛に依頼して木造二階建ての店舗をつくり、さらに不忍池に面した店の裏手には、当時として珍しい瓦屋根のある鉄筋コンクリート造りでありながら洋館風の母屋を建てた。
昭和十年に刊行された写真集『建築の東京』は関東大震災の建築物を収めたもので、空也の洋館風の建物の写真も掲載されて、菓子舗空也、竣工年・昭和三年、設計者・志村太七、所在地・台東区上野二丁目十四番地という説明もある。
この『建築の東京』に収録された多くの建築物は、後年、松葉一清によって在否が確認されて、昭和六十三年に『帝都復興せり!』が平凡社から出て、さらに平成十年に朝日文庫化された。著者の松葉一清は、空也の建物について “ 和風の反り屋根と奇妙な壁面仕上げが興味深い ” と付記している。
この建物の一部は現存する。
池之端口を出ると、老舗の天ぷら屋「山下」のビルがあり、その五、六軒先の「トウカイ」というレストランの裏手に、小ぶりな鐘楼を思わせる建物が二階の瓦屋根をのぞかせていて、いまでも異彩を放っている。
なんだって? トウカイのレストランの裏手だと?
写真、撮ってました。2014年に。
こちらがその写真。ホテル観月荘と、蓬莱閣の間に、、、
「レストランとうかい」という二階建てのお店があって、その後ろにほら。
4年前、あのとんがり屋根を見て、なんだろうとずっと気になっていた。
それで写真を撮っておいたんですが、
「レストランとうかい」と「ホテル観月荘」の間からちらっと見えるのは、
件の洋館の手すり部分じゃないかしら。
グーグルの俯瞰写真を見てみます。ありますね、蓬莱閣のとなりにとんがり屋根。
先ほどの「老舗の履歴書」をもう一度読んでみると、
『建築の東京』に収録された多くの建築物は、後年、松葉一清によって在否が確認されて、昭和六十三年に『帝都復興せり!』が平凡社から出て、さらに平成十年に朝日文庫化された。
早速取り寄せてみた!!!
あったあった。
同じでしょう? 同じですよね。
気になっていた建物が、空也の三代目が建てた母屋の洋館だったとわかった時のドキドキ感。
それはそれは興奮しました。
さて、樋口さんの書いた「老舗の履歴書」は、このように膨大の資料を元に構成されています。
空也というお店ひとつとっても、調べ上げた事柄は大変な情報量です。
この本で、福島慶子さんを知り、空也の洋館のことを知りましたが、
ちょっと面白いことに福島さんと樋口さんで違う話がありました。
福島さんは空也の初代のことを、彦一郎さんのお祖父さんと思いこまれている部分があったんですが、樋口さんの調べでは、初代は血のつながらない古市という人で、その人に子がなかったので、番頭格の山口彦助が継いだと書かれています。
以下がその二つの原文
福島さんの話
山口さんのお祖父さんにあたる人は変わった人で、昔、「空也念仏」という一種の宗教に凝り、向島の百花園などに集まっては踊り乍ら念仏を唱えるグループを作っていたということです。
今でいえば差し当たり踊る宗教の元祖みたいなものだったのでしょうが、当時はそれ程共鳴者もなかったとみえ、新興宗教としては盛り上がらなかったようです。
二代目のお父さんもなかなかのディレッタントで、最後の江戸っ子、
三代目が前述の山口彦一郎さんです。親子三代それぞれ変わった気質が現れて続きましたが、変わらぬのはこの家は代々気位が高く、自分の店の菓子を食べたい人間は買いに来るのが当然、此方から頭を下げて注文を取って廻ったり、配達するなんか真っ平ごめん、とは言わないけれど、そうとしか受け取れないような営業方針で今までやって来ました。
樋口さんの話
屋号を空也としたのは、初代が関東空也衆の一人だったからだ。関東空也衆とは踊り念仏の流れを汲み、向島の百花園などに集まって踊りながら念仏を唱えるグループだったらしいが、実際は旦那衆が念仏を唱えるのを口実に集まって、その後で遊びを主目的にしていたのではないかと、現当主の家では言い伝えられている。
初代は、江戸城に出入りする日本橋堀留町の畳屋だったが、道楽が過ぎて倒産してしまう。
そのとき関東空也衆の仲間が、日本橋栄太楼にいた職人を付けて和菓子屋を開く段取りをつけてくれた。明治十七年 ( 1884 ) のことである。
店の看板商品は空也最中で、踊念仏の拍子をとるとき叩く瓢箪の形を模したものであるが、これを考案したのは初代だ。初代は道楽者だから顔も広く、歌舞伎役者や落語家の円朝などと親交があった。 あるとき九代目市川團十郎の家に行くと、長火鉢の抽斗ひきだしから古くなった最中を取り出し、金網にのせて炙あぶり、ちょっと焦がしてから勧めてくれた。 食べてみると、焦げたもち米の皮が香ばしくて、サクサクした歯ざわりもいい。そこで初代は、皮を焦がした空也最中を売り出して好評を博した。
ところが店が繁昌するようになっても、初代には子供がいなかったので、番頭格の山口彦助が後を継ぐことになる。
初代に関しては、古市という姓で、阿行あこうという俳号を持っていたことと、店を彦助に譲ったのち品川に隠居して精神修行の会をひらき、悠々自適の晩年を送ったことしか伝わっていない。また彦助について菩提寺の谷中の天王寺 ( 天台宗 ) の過去帳を調べても、生年が明治五年だとしかわからない。
これを読んでも、樋口さんが徹底的に調べ抜いて書かれていることに感服。
樋口さんご自身も「はじめに」で、こう書かれています。
いわゆる老舗紹介の本を読むと、取材先から提供された資料をそのまま記しているものが多く、史実とはいささか異なる記述も目につきます。
その点、老舗の上っ面を撫でるだけの、提灯持ちめいた文章を書く気のなかった私は、『東京人』の連載開始にあたり、相当に突っ込んだ取材をしたいと考えて、慎重に相手を選びました。
私のかなり無作法な、土足で座敷に上がり込むような質問に答えてくれて、一度だけでなく二度や三度の取材にも応じてくれる老舗の現当主にぶつかったからです。
なぜ二度や三度の取材にこだわったかというと、これまでの私の経験では、取材が終わりかけたころになって、「よけいな話かもしれないけど、実はこんなこともあったんですよ・・・」と切り出される話に、コクのある内容が多いのです。
骨のある方だなあ。
今回は先に空也の部分を拾い読みしましたが、他の章も同様に丹念に仕上げられていることでしょう。
樋口さんは、2001年に63歳でお亡くなりになっています。
ルポライターではなくれっきとした小説家。
氏の代表作である「ジェームス山の季蘭」「銀座ラプソディ」も、近いうちに是非、読んでみたい一冊です。