Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

映画 『流れる』 ① 映画化で思うこと

 

幸田文原作「流れる」の映画を観ました。

流石、成瀬監督の手にかかると女性陣が美しい。

 

その美しさが、良い面と残念な面の両方に現れた気がします。

原作で伝えていた要素がザックリ省かれている。

その為、別の世界としてどう楽しめるのかを突きつけられた作品でもあったのです。

それでも非常に面白い。

女優陣も見事だし、特に往年の大スター栗島すみ子さんの起用が凄い。

小説「流れる」が主観の強いものならば、映画「流れる」はバランスの取れた群像劇を見せられた感じ。

それぞれの女優さんの見せ場もなかなかで、十分に楽しませてもらえる秀作でした。

 

《 原作との相違 》

もともと原作「流れる」の主人公は女中の梨花で、物語は女中 ( 作者 ) の目を通して描かれていきます。

ところが。。。。

映画の方は、梨花を「目利きの素人」から「普通の心優しい女中さん」に置き変え、

主役を三枚看板にしたのです。( 興行の問題、大人の事情でしょうかねぇ )

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右から 梨花( 田中絹代 )、置屋の女主人 ( 山田五十鈴 ) 、その娘勝代 ( 高峰秀子 )

 

また。

原作では娘の勝代は器量が悪く、芸者にはなれない女でしたが、

高峰秀子を器用したことによって

「芸者として出たことはあるが、性があわずにやめた」という設定に変更。

この為、玄人にも素人にもなれず、嫁にもいけず悶々と暮らす勝代の歪んだ感情は描けなかったのです。

 

映画と原作とでもうひとつ大きく違うのは、置屋の家が綺麗過ぎること。

原作では、初めて訪れた置屋の家を、梨花に「汚い」と言わせています。

綺麗なべべを着た芸妓の、表の顔から想像のつかぬほど、陽のあたらない病犬の糞尿にまみれた玄関がそこにあったのです。

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そんな玄関からでも、美しく着飾って切り火を切って出れば、芸妓のハレの世界が始まる。つまりそうしたハレとケをつまびらかにしたのが小説「流れる」だったと私は思うのです。 

 

 

 

ただやみくもに「原作とは異なる」と連呼する気はありません。

映画化とは、原作とは違う新たなものが生み出されればいい。

1人の監督の目を通した新しい一本の映画としてどうかを考えた時に、面白かったかどうか、感慨深いでも感動したでもいいですが、何か心に残るものがあればいいと思います。

ただし原作がある場合、それをしのぐとか、塗り変えるとか、何かの要素がなくてはならないと思うのですけれどね。

 

そういった意味でも映画の「流れる」は色々感じ入る作品でした。

この続き、また書かせていただきたいと思います。