Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

大阪社交界の女王 廣岡夫人 浅子

NHK朝のドラマ「あさが来た」も、もう大詰めに入ってきましたね。

だからということでもないのですが、( 個人的に ) 非常に貴重な資料が入手できたので、

書き写しました。

 

外国にいるお友達にその資料をお見せしたかったので。。。

著者は、明治期 新聞人として活躍して いた吉弘白眼という方。

吉弘白眼さんは、その、外国にいる彼女の曽祖父にあたるんです。

ひいお爺ちゃんの書いたものだもの、きっと喜んでくれるんではないかと思いまして。

 

白眼さんの書いた「青眼白眼」は、現代デジタルライブラリーでも読むことが出来ます。

でも。。。ご覧の通り、すごく読みにくく骨が折れます。

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ところが最近になって「青眼白眼」の中の、廣岡浅子さんの部分だけ、現代文に直されていたのです。

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タイムリーなものでもありますし、当時実際に廣岡浅子さんに触れあった人の、

生のエピソードです。

皆さんも、お楽しみいただければ嬉しいのですけれど。。。

 

大阪社交界の女王 廣岡夫人 浅子

著:吉弘白眼 「青眼白眼」より

 

 大阪の社交界は千紫万紅の咲きそろった百花の園の様で才能にあふれた多色多才の人々によって飾られている。河上氏の謹厳さ、岩下氏の敏快さ、平賀氏の諧謔、島村氏の率直さ、並びに鶴原夫人の淑雅、沖野夫人のあかぬけた様子、片岡夫人のしとやかで美しい様子、それぞれ独特の才美を示していて、これはこれはにぎやかな事であるが、この他に更に一人、廣岡夫人を加えて、一段の光彩を放っている。

 

 廣岡夫人とは紹介するまでもなく加島銀行の故廣岡信五郎君の夫人で、誰あろう三井八郎氏の家に生まれた大事に育てられたお嬢さんであって、今年五十六歳という老婦人であるが、その壮心英気は現代の女学士といえども一目を置くくらいで、東京の常陸山 ( 訳注:ひたちやま。当時の関東の名横綱 ) ともいうべき奥村五百子女史 ( 訳注:当時の社会実業家 ) と相対して、まさに上方の若島 ( 訳注:わかしま。当時の関西の名横綱 ) ともいうべきである。その名は浅子といって誠に優美な、素直な、良いお名前であるが、その性格は必ずしもそのお名前があらわしているようなものという訳ではない。

 

 夫人の英気が盛んな性格のうちにも、また優に艶なる女性的な本色がちらっと見えている。ずいぶん思い切った、飛び抜けた、男でも口ごもるほどの事をサッサと無遠慮に方言する正面のその裏に、えも言えぬ特質が現れている。このような性格の女流を品定めすることが困難なのは、ちょうど不屈の意志をもったクロンウェルや、怪傑セシル、ローズを論評するのと同じようである。

 

 夫人の態度の一つを紹介してみると、普通大抵の男は辟易せざるをえないほど、さっぱりというか、無遠慮というか、悪く形容するとおてんばといおうか、ともかくも優美でもない、上品でもないというような、女性にとっては極めて不愉快な評語を下すべきであるが、さてその性格はというと必ずしもその態度の通りであるというとは少し即断するには苦しむ。夫人は名家の出だけあって今のときめく内閣大臣や元老や、その他の政治家連と浅からぬ交際をしているが、その交際の仕方がそもそも非凡である。伊藤候や桂総理や、その他松方伯、井上伯などいう貴人の邸宅を訪問するのに、玄関から案内を待たずに、ドシドシ入り込んで応接間を放って要人を驚かすような議論をする。夫人はその生まれついたままの性格を露骨にあらわして、少しも隠すことがないようなあいまいなところのないのは、天真爛漫であるからで、普通の日本婦女の欠点である陰険とか、老獪とか、嫉妬とか、妬みや疑い深さなどは少しも見出すことのできないほど度量が深い。夫人は談話に味が入ってくると、座っていられない勢いで、高尚な漢語などを使って雄弁に立て板に水の弁論をやってのけるところ、女流雄弁家というのが丁度よい。夫人は自分が知っていることを露骨に、単刀直入にいいあらわすだけ。それだけ他人の意見をも論駁する勇気と知識とを持っている。

 

 夫人は日ごろ、袴を常用していて、頭は必ず束髪に結び、何となく女儀を正しているが、なおまた芸術の奥義も極めていて、碁を打ち、謡曲を唄い、琴の秘曲を弾じ、生け花の道も諸流を極め、和歌を詠じ英語に通じて会話の際に時々イングリッシュを挿入する。夫人が基盤に向かって鳥鷲の開戦 ( 訳注:囲碁で勝負を争う事 ) を宣布した場合などは、満身に力を入れて碁石を打ち下す勢いはすさまじく、盤面に鋭い音をさせてしばしば名人級の手を下して大家を辟易させることもある。ある時、愛国婦人会大阪支部の協議会があった時、夫人も会員の一人=殊にその主なる監事の一人なので、出席して協議にあたったが、座上の座長権はいつの間にか、夫人の手に巻き上げられて一人で采配をふって議事を進ませるほどであった。こういう事は毎度のことであるが、その席上で小松原夫人と横山弁護士夫人とが何か小声でささやき合っていたのを見て夫人は睨一睨 ( も凄まじいが ) 、して「あなた方は何をささやいておりまする。思う事があればドシドシ意見をお述べなさい。小声でかれこれいうのは禁物です」と一喝したので、両夫人は真赤な顔をして皆の前で肝を取られたが、その囁きは服装の事で、次回の婦人会へはどんな衣服を着ていこうかと話し合っていたことが分かると、廣岡夫人はなおさら逆鱗もので「それならば何もヒソヒソ話をするには当たりません。公然とお話しなさい」と二度目の叱責をしたので、両夫人は侮辱されたものとでも思ったかして、小松原夫人はその翌日最初入会の紹介者であった松本夫人のもとへ、脱会を申し込んだそうな。こういう風だから年若い婦人方は廣岡の浅子夫人といえばビクビクもので、君子危うきにちかよらぬ方針を取る人もないではない。

 

 このような性格の夫人には婦人の守るべき徳が乏しいどころか、全くないというのが通例だが、廣岡夫人もまたそうであるかというと、必ずしもそうではない。夫人の夫である信五郎君は先天的な篤実家で、言葉少ない紳士で、万事控えめな性質で、ほとんど髭のある女性のようなものである。この夫婦をつくった仲人は、かつてその滑稽なコントラストを演劇のように示そうとしたのか、浅子夫人をこの信五郎君と結婚させたのは、一種のコメディを演じて人生を賑わそうとしたための深い寓意かもしれない。しかし夫人がその夫に仕える態度は世間でいうのとは正反対で、やはり普通の女性的で丁寧な様子である。十九世紀世界の第一等夫人ヴィクトリア女王が、アルバート親王と琴瑟 ( きんしつ ) 相和して、幸福円満な家庭を作り、少しも皇后の徳を損なわなかったということを認める人ならば、廣岡氏の家庭生活を見て案外うらやましく思うかもしれない。関関たる雎鳩 ( しょきゅう・みさご ) は河の洲に在り ( 訳注:夫婦仲がむつまじいことのたとえ ) 、夫人浅子は徹頭徹尾女性として、変った女性として認められている以外でも、本来の女性的な面もあり、決して船虫が八犬士を悩ましたように ( 訳注:里見八犬伝の中で、行く先々で主人公たちを阻む船虫という悪女のことを言っている ) 、大阪社交界を悩ます人でないことを明言しておこう。

 夫人の養子である人が、盲腸炎で危篤に瀕したことがあって、切開するべきか否かについて医者が非常に心配して病人を眺めており、家人たちは沈みかえってものが手に着かぬ有様を見るや夫人は大声で𠮟り散らして、医者というものは冷静な頭脳を持たねばならぬ、何をグズグズしておるかと天来の一喝を与えたので、さすがのドクトル某も呆気にとられたそうだが、しかも夫人が病人に対して看護している様子は大変行き届いた様子で、連夜一睡もせずに、深い注意の下に看病して、人を叱るほどあって浅子自分も真に責任あることをしていることは何人も承服せざるをえなかったそうな。

 

 そもそも廣岡家というのは旧幕時代には十人両替の家で大阪唯一の旧家に数えられ信五郎氏は分家して本家は氏の令弟久右衛門氏に譲り、本支供に繁栄している。祇園清二郎氏は廣岡家の元老で、細かな点まで気の届く思慮ある人で、夫人の果断決行とあいまって大阪実業界の光である。草島寮というのは廣岡家ならびに加島銀行に従事している行員店員等を教育する学寮で、将来の立身出世に必要な学科を教授しているのは、いささか世の富豪に示して手本とすべき美学ではあるまいか。