NHKの「グレーテルのかまど」という番組で「幸田文の花見だんご」を取り上げていました。
2014年にOAしたもので、花見の季節だからの再放送みたい。
丁度 隅堤を散歩したばかりだったので、そのタイムリーさに感動。
幸田文というと、向島と小石川の、二つの土地のイメージがありますが、
やはり少女時代を過ごした向島 ( 寺島村 ) の頃の話が興味深い。
向島の墨堤は、明治時代には桜並木の大きな通りで、桜の頃は花見客で賑わった場所だったそうな。
墨堤の花などといっても、いまはどなたも疑わしそうな顔をするが、
もとは隅田川添いの向島は、桜の名所だったのである。
私はそこの生まれなので、花の美しさも花見客の雑踏も知っているのだが、私の十五六歳の当時すでにもう、土地の大人たちは樹勢に衰えがきて、ぽつぽつ枯死するものが出始めたことを愁いていたのだから、数えればそれがもう五十年の昔である。
だから、いまの人が墨田堤の花を知らないのも、無理はない。
先日歩いた白髭神社の前の墨堤も、今では一本の桜、ありませなんだな。
当時の写真
番組でも、当時の写真が紹介されていました。
幸田文のおだんごは、
その堤に花どきだけ店を出す、よしず張りの掛茶屋さんが売っていたものでした。
甘辛だんごの辛い方は《ほんとの醤油の付け焼きだんご》
今のようにあまからあじの葛仕立てではないから、すこしこげて醤油のしみたうまさは無類、
子供たちは大好きだった。
いいですねぇ、残念ながら今はなかなかありませんもの「醤油の付け焼きだんご」
食べたければ自分で焼くしかないか。
「花見だんご」には、こんな名前も登場してました。
しかし、向島にもそういう格好の悪い串団子や、五銭で三つくる安桜もちばかりではなかった。
長命寺のさくら餅、言問のこととい団子は姿も味も上品であり、名の知れたものだった。
ただ、私になじみ深かったのは、横食いの串団子だったのである。
この「横食い」が面白い。
番組 ( グレーテルのかまど ) は、この横食いに目をつけていました。
ん? 《中略》があると、何だか妙。
作者が意図した意味合いとテンポが損なわれるような気がしてしまう。
番組上 ( もしくはNHKとしては ) ぼやかしたい部分であるのもわかるけど、
やはりファンの末席にいる者としては、原文に親しみたい。
一串に四ヶつきさしてある団子の、一番おしまいに手許へ残った一つを前歯にくわえて、ぐいと竹串を横へ引き抜くときの満足感は、あだやおろそかにできない愉快である。
そういう食べかたは行儀がわるい、と親からはきつく叱られるし、また実際にひとのそんな食べぶりを見れば、下司だなあと興ざめもするが、さて自分の場合になれば行儀も下司もかまってはいられない。
ちょいとうしろ向きにかくして、ぐいと横食いすればそのうまさ、あまり甘くないあんが舌にからまってくる、その触感のやさしさ。
やっぱり意味合いが違う。
幸田文は「ひとのそんな食べぶりを下司だなあ」と、
そして「自分の場合になれば行儀も下司もかまってはいられない」と言っているのですよ。
その言いぐさが、このエッセーの魅力であり文さんの可愛らしさであると思う。
やっぱり「ん?」と気になった部分は読み直すに限る、と思えた出来事でした。
私も (中略) よくするもの、それに好きな部分だけ抜き出すもの、気をつけないと。
原文を読んでもらえるキッカケになれば嬉しいと思う気持ちでやってたけれど、
「もしや、オリジナルをそこなうようなことになっていたりして、、、」とヒヤリとした。
もしそうだったら平にお許しください。
すまんことです。
「花見だんご」の初出は、榮久堂が発行する「あま味 創刊号」 ( 1969年3月号 )
現在は、平凡社発行「幸田文 台所帖」で読むことが出来ます。
《ちょっとついでに》
幸田文が生まれたのは向島。
幸田露伴は若い頃から転居続きだった自分を、
殻を背負って歩くカタツムリにたとえていました。
露伴の家を「蝸牛庵」と称される所以です。
なので向島蝸牛庵とか、小石川蝸牛庵とか、色々あります。
更に向島には、蝸牛庵は数か所あります。
向島 ( 寺島村 ) で三回引越しているからです。
そしてここが三軒目の跡地。児童遊園になっています。
幸田文が生まれたのは二軒目で、
上の場所から大通りの方に行ったところにある雨宮酒店の隠居所 ( 借り住い ) でした。
( ※ この辺り ↓ ↓ ↓ )
幸田文が少女時代を過ごし「みそっかす」で語られているのは、三軒目の蝸牛庵でのこと。
このゆかりの地を永久に記念したいと、露伴を思慕される地主の菅谷辰夫さんが区に寄贈。
墨田区は、寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡としていつまでも保存しようと児童遊園にしたのだそうです。
現地には遊具のほか、石碑やカタツムリがありました。