永井龍男さんの「冬の日」を読もうと思ったのは、
よんばば (id:yonnbaba) さんの書評がキッカケでした。
昭和の良き時代の風景や、女のしとやかな佇まいに触れたくてページをめくりました。
読了後、さてあらすじをまとめようと思ってもどうしても出来ません。
作品に対するよんばばさんの感想や説明の組み立てが素晴らし過ぎたからでした。
そんなワケで今回は、
本を読み→よんばばさんの文章を読み返し→もう一度作品を読むという特殊なやりかたで、作品を楽しみました。
これから読もうとされる方、既読し感想を共有したいと思う方は、是非よんばばさんの記事を参考に。
なにより私が感じいったのは登利の結末を「退場」と結ばれたところです。
読書感想について考えさせられました
はてなブログに引っ越してきて、5年が経とうとしています。
はてブを通して沢山の方と巡り合い、相互読者となり、多くの記事を読む機会を持ちました。
美味しい料理を作られる方、素敵な店を次々と開拓される方、観光名所や歴史的建造物を探訪される方、「人」とは何かを見詰めている方、生活のノウハウを探求されている方、どの記事からも知らなかった世界を広げて貰えます。
本や映画やドラマ、演劇について書かれている方も沢山いらっしゃり、
読んだ (見た) ことのない作品に興味を与えて貰えたり、共有したり、「こんな受け止め方があるのだ」と視野を広げさせて貰えることもありました。
そんな中、よんばばさんの読まれる本に幾度も興味を惹かれました。
既読の作品は「そうそうそう」と膝を叩き共感することもありますが、到底私には気づけない良さを気づかせて貰えることの方が多く、とても刺激的なのです。
よんばばさんは、あらすじをまとめる構成力に長けています。
そして素晴らしいのは、作品に寄り添っていることをキチンと現されているところです。
例えば、今回の「冬の日」では、
明け渡す家の掃除にいそしむ彼女は、ふいの来客にいそぎ割烹着を外す。
おそらく襟元もきりりと、地味な着物に身を包んでいることだろう。
現代の四十代や、それ以上に、分別の足りない自分を思うと、あまりの対照に恥じ入ってしまう。
時間は遡れず、遡るべきでもないだろうし、制約の多かった昔が良いわけでもない。
言葉も人も社会も、なにもかもが時間とともに変わっていく。
だからこそ、美しさ、大切さに気付くということもある。
しみじみと、そうした、私たちが便利さと引き換えに失ってしまったもの、
ほんの50年前には当たり前にあったものを考えさせてくれる読書だった。
と、結ばれています。
※ 勝手に引用もしてしまいました。よんばばさんスミマセン。
よんばばさんでなければ感じ得ないことであり、作品の中にご自分を見出していらっしゃる証です。
私も本を読んでは「感想文」のようなもの ( 私の場合は備忘録 ) を 書くことがありますが、常に心がけるのは自分の気持ちや体験が作品に寄り添っているかどうかを問うことです。
まだまだ思うように書けないことばかりですが、それでも目標にしています。
「誰が書いたのかわからない感想文」でなく、よんばばさんのように「読んだ人間の血肉を通して感じ得たもの」が盛り込まれているものこそ、その人にしか書けない真の感想文だと思うから。
アハッ! 自分で感想文のハードルを上げてしまいました。
恥ずかしいので、今日は「冬の日」で一番心にしみた部分を書いて終わりにします。
「縁の下に、落ちていました。お入り用なんでしょう」
と、(畳屋は) 手をさし出した。
花模様をかいたゴム毬と、一つは長い靴ベラだった。
「まあ、どこに行ったのかと思ったら」
~ (中略) ~
縁の下へ転がした毬を取ろうとして、長い靴ベラを使ったことはすぐ分かる。二つになる登利の孫娘が、やったことに違いないのだ。
気がついた時には、登利は洗面所にいた。
毬と靴ベラを洗うつもりで来たのだろうが、涙が止めどなく溢れて、ただ立ち尽くしていた。
溢れるまで、涙は眼を焼くほどに熱く、顔を伝わる時は総毛立つほど冷たかった。