Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

鎌倉 巨福呂坂を訪ねる2 巨福呂坂と青梅聖天社

巨福呂坂に向かう通りに入ってきました。

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なだらかな坂道

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正面に山が見えてきました。

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突き当りに巨福呂送水管路ずい道が見えてきた、その右にある坂道が巨福呂坂。

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送水管隧道の柵から中をのぞいてみましたが、ぜんっぜん見えません。

平成19年 ( 2007 ) まで使われていたらしいですが、送水休止し今は使われていないとのこと。元々は旧海軍の施設だったんですって。

 

送水管隧道は、巨福呂坂トンネル  ( 現巨福呂坂 ) の脇までつながっているらしい。

隧道の脇にお店がありました。喫茶も可とのことなので入ってみることに。

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築100年の古民家カフェとのことだけど、

綺麗にリフォームされているから築100年には見えません。

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入口もモダン。

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アルビコッカと読むのかな?

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素敵なお店。

窓からは巨福呂坂が見えます。

 

ティラミスのミニクレープソルトとレモンティーを頼み、

お店のお姉さんの手があいたのを見計らって、ちょっと聞いてみようと思います。

なにについて? 

巨福呂坂と山越えのルートについてです。

巨福呂坂の通行止めの先がどうなっているか、ということと、

こちら谷戸から隣の谷戸に行かれる道はないか、ということです。

 

図で説明するとこういうこと⤵

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地図にある巨福呂坂と書かれたこちら側から、隣の扇が谷の間は高い崖で隔てられてます。

でも、どこかに分け入る道はないものかと。

⇔ の部分を越えられるのでしないかと期待してるんですが。。。

 

お姉さんに、地図を見てもらいましたが、

「獣道の入り口ですか? ごめんなさい、わかりません。

 今度、私も行って確かめてみます」とのこと。

地元の方ならもしかして、と思ったんですがダメでした。

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「仕方ない、自分で探すしかない」と思っていたところ、

お店にいらした方から声をかけられました。

お姉さんと私の話が、聞こえていたようです。

 

その方のお話では、

巨福呂坂は、新道のトンネルが開通した後、埋めちゃったんだそうなんです。

なんで埋めますかね。(笑)

それから、青梅聖天のことですが、

ご本尊の祭神は双身歓喜天といって、とっても珍しい形なんだそうです。

お顔が象なんですって。

「えっ、ガネーシャみたいなの?」と聞いたら、それともちょっと違うらしい。

 

こんなの⤵

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その像は一度盗まれたんですが、質屋で見つかり買い戻されたんですと。

それで今は鎌倉国宝館に保管されているとの由。

青梅聖天社の例祭は7月17日とのことなので、一度訪ねてみたいと思います。

 

いやぁ、面白いお話が聞けてありがたい。

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情報を提供して頂いた方にお礼をいい、店をあとにしました。

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アルビコッカ。

今回はお茶だけでしたが、料理も色々ありました。

お隣の人は、パスタを美味しそうに食べていました。

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店の外に、緊急地区の看板がありました。

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この地図でも、巨福呂坂の民家の背には崖がせまっていることがわかります。

隣の谷戸、扇が谷の方には行けそうもないか。

 

左に青梅聖天社の階段が見えてきた。

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灯篭かしら、倒れそうになっている。

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かなり高いところにあるんですな、

青梅聖天社はあとで伺うことにします。

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水仙が美しい。

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様々な石碑があることから、

この場所が古道であることがわかります。

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古い庚申塚が沢山ある。

字が判別できないほど風化しているものもある。

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左 )  道造供養塔 笠付角柱塔 年不詳

隣 )  聖観音立像 舟形光背碑 年不詳

中 )  大国主大神 自然石板  明治14年 ( 1880 )

そのほか、写真の手前に1碑、奥に3碑ある。 

字が判別できるものだけ書きましたが、ほとんどがわからない 

猿田彦大神もありました。隣には青面金剛もありました。

2つ並んでいるのは、珍しいんじゃないでしょうか。

 

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左 ) 文字「ウーン青面金剛」 駒形碑、天保12年 (1841 ) 

    ※ウーンというのは、青面の家の梵字のこと、「ウーン」と読むそうな。

中 ) 文字「猿田彦大神」  自然石 広化3年 (1846 )

右 ) 「ウーン」その下が横に「塔申庚」…庚申塚です。 自然石板 年不詳

 

猿田彦大神は、道の神とか道祖神だと言われています。

道祖神は一般に村のはずれにあって、外部から村に霊が侵入するのを防ぐと言われますし、

北鎌倉 ( 山ノ内 ) には刑場もあったということから、

ここが鎌倉のはずれだったと推察されます。

 

 

刑場について

 

山ノ内の建長寺境内に昔、処刑場があったという話をひも解いていくと、

興味深い話がどんどん出てきます。←あはは。興味深いと思うのは私だけかも。

「新編鎌倉志 巻之三目録」に、地蔵堂について書かれていました。

新編鎌倉志については末尾で詳しく取り上げます。

地蔵堂は、小袋坂より山ノ内を行けば右の方にあり、伽羅陀山心平寺という。

建長寺の境内なり。

『鎌倉大日記』に、建長寺元年に小袋坂の地蔵堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄が谷といいし時より、地蔵このところにあり、済田地蔵の根本なり事は建長寺の條下にあり。

地獄が谷というのが、処刑場です。

で。

済田地蔵というのは何かというと、済田左衛門が信心していた地蔵の小像にまつわる伝説です。

 

ざっくり説明しますと、、、

昔、建長寺にある谷は処刑場で「地獄谷」と呼ばれていた。

そこには、処刑された者の供養のため地蔵菩薩を本尊とする心平寺があった。

ある時、地獄谷で済田左衛門が無実の罪で斬首されようとしていた。

だが討手が何度刀を振り下ろしても済田の首は切れなかった。

済田は、日ごろから信心していた地蔵の小像を髻 ( もとどり ) に入れていたのだが、

その小像に刀傷が残されていた。

命を助けられた済田は、自分の身代わりになってくれた地蔵に感謝し、

その小像を心平地蔵の頭の中に納めた。

済田の小像はその後、創建された建長寺の、仏殿本尊の地蔵菩薩像の胎内に移されたとさ。

ごめんなさい、話があっちこちに飛んでしまいました。

鎌倉を調べていると、色々な説話や歴史上の人物が出て来て、

それを調べている内に、どんどん脱線してしまうのです。

 

それで。

結論から言うと、

ここに道祖神や道造供養塔や庚申塚が沢山残っているのは、

ここが古道であり鎌倉の入り口だからということを示しているのではないか、と言いたかったのです。

処刑場は町の真ん中には作りませんからね。

 

いやはや。

石碑ひとつだけでも興味深いのにこんなにあると、立ち止まって先に進めないから困ります。

 

なだらかな坂を上っていくと、そろそろ民家に突き当たるはず。

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あの先だな、きっと。

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突き当りは、右の家の車庫になっていました。

車の向こうを覗き込むと、なだらかな坂がある。

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入っていいものかどうか。

資材が置いてあるところを見ると、個人の所有地でしょうから、

今日はあきらめます。←今日はって何?

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電柱にも「この先危険 通行注意」とある。

崖か何かになってるんじゃないのかな。

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とりあえず、来た道を戻ると、

左側に民家と民家の間にちょっと道がある。

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左に折れ、進むと急に視界が開けました。

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かなり下に位置する場所に人が歩いています。

階段があるので、少し降りてみると、下に手付かずの空き地。

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下の道は、巨福呂坂の新道のようです。

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見えるが、下までは降りられそうもないので、ここもUターン。

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やはり巨福呂坂は、この辺りで消滅していることがわかりました。

 

今度はさっきスルーした青梅聖天を詣でます。

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青梅聖天とは、

さきほどお店でも伺ったように、双身歓喜天が祀られている社です。

 

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前もって説明を受けていたので、説明書きの理解も早い。

双身歓喜天 ( 鎌倉市指定文化財南北朝時代作 ) を本尊に祀ります。

当歓喜天様は、『新編鎌倉志』巻之三に「鎌倉の将軍、一日疾劇(やまいはなはだ)しふして、時ならず青梅を望まる。諸所を尋ねるに、この宮の前に俄に青梅実る、これを将軍に奉て、終に病癒(やまいいえ) ぬ」とあり、青梅聖天と呼ばれました。

 

歓喜天は大聖歓喜天とも称され、仏教を守護し邪悪を除去し、諸願を成就させてくれる尊体として信仰されてきました。

 

ご本尊は男神と女神が「相抱き正立」して顔をみつめあう姿に造られた珍しい像で、歓喜天信仰を考える上でも貴重な文化財です。

 

一般には夫婦和合の利益あり、などとも説かれておりますが、史跡旧巨福呂頂上ちかくに祀られたのは、足柄峠の『聖天堂』と同様に、峠を往来する人びとの安全を願ってのことでした。

 

平成9年10月13日 市文化財指定
巨福呂坂 町内会

 

境内は綺麗に掃除されていました。

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歓喜天にも興味深々だけれど、

もっと知りたいのは、山越えする道がどこかにないかということ。

赤い⇔を行き来する尾根道がないかということです。

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だって、古地図には線があるから

絶対あるはずなんだがなあ。

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でも無理か。

本殿後ろは、切りたった岩盤で、どこにも登れそうなところはない。

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諦めて帰ろうか。

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次は、扇が谷の方に廻って、あっちからこちらに来る道がないか、見に行ってみよう。

 

 

 

参考資料 :新編鎌倉志 五巻

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04202/

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_04202/ru04_04202_0005/ru04_04202_0005.pdf

『新編鎌倉志』は、江戸時代の地誌で、貞享2年 ( 1685 ) に刊行されました。

延宝元年 ( 1673 ) に、水戸藩主であった徳川光圀が、鎌倉を旅行した際の見聞録を基に河井恒久らに作らせたものです。

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五と書かれた巻「新編鎌倉志 巻之三目録」に巨福呂坂と、青梅聖天が載っていました。

 

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下の部分を、書き起こしておきます。

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河井恒久 纂述

松村清之 考訂

力石忠一 1641-1693 参補

 

【巨福呂坂】

巨福路坂 ( 或いは小袋路又は呂 ) は、雪ノ下より建長寺の前に出る切通しなり。

『太平記』『神明鏡』に、新田義貞、鎌倉合戦の時、 堀口美濃の守貞光 を巨袋呂坂へ差向けらると有りは、このところにはあらず。

     ※ 鎌倉の歴史ー新田義貞の鎌倉攻め 鎌倉幕府滅亡 /鎌倉ぶらぶら

市場村の西に巨福呂が谷というところあり、これを指すなり。

則してこの道筋なり。このところは巨福呂が谷へ行く坂の名なり。『太平記』『神明鏡』をも巨福呂が谷となしてみるべし。古老の伝えこの道より市場村の道までを巨福呂が谷と言う。故に建長寺を巨福山と言うなりと。 『鎌倉九代記』 に。 新田義興 脇屋義治 、鎌倉に攻め入りし時、基氏方の兵、小袋坂、化粧坂に集まりて堅めたりとあるは、市場村の西を言うには非ず。則てこのところを指すなり。義興、義治、既に源氏山へ登り、鶴ヶ岡山へ登るとあるを以って知る也。

 

青梅聖天の部分も、書いておこう。 

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青梅聖天

青梅聖天は雪ノ下より小袋坂へ登る左に小坂あり、巌窟の内に聖天の宮あり。故に坂を聖天坂という。これを青梅の聖天ということは、俗に傳う。鎌倉の将軍、一日疾劇(やまいはなはだ)しふして、時ならず青梅を望まる。諸所を尋ねるに、この宮の前に俄に青梅実る、これを将軍に奉て、終に病癒(やまいいえ) ぬ。故に名くと。

参考にさせていただいたサイトさま↓