しつこい
「しつこい」と自分でも思いますが、
徳田秋聲の作品についてもう一作、読んでみたい作品がありまして、
今回はとりあえずその話で打ち止めとします。
「犠牲者」という作品
この作品は、大好きな里見弴さんが「二人の作家」というエッセーでふれていたものです。
件のエッセーによると、、、
これを読んだ里見弴は「
「批評とよりは、若き父親の義憤から発した抗議の如き文章を、某紙の文芸欄に投書した。」らしい。
どんな内容が気になります、里見さんを怒らせちゃったっていうんだから。
でも大体の想像はつく。『黴』でも、秋聲のおっちゃんは妻や、産まれてくる子のこと散々だったもの。
あんな感じかいなと思いました。
見かけによらず子煩悩の里見さんにしてみたら、耐えがたい話だったんでしょう。
里見弴著「二人の作家」のその部分はコチラ⤵
大正五六年か、「犠牲」という題で、
無精 ッたらしく、ふんぎりの悪い父親をもった何人かの幼児が、つぎつぎに疫痢 で斃 れて行く有様を、当時の慣用語で謂 う「平面描写」⸺ いやに落ちつき払った筆法で描いた秋聲の作品で、私はむしょう に腹を立てさせられて了 った。もっとも、最初の子を生後五十日たらずで
奪 られたあと、次のが生れて間のない頃だったせいでもあったろう、
⸺ 犠牲とは、さほどでない者が、よりよき者を、更によくするために身を亡ぼす場合にだけ許される、容易ならざる言葉で、この作品の父親が、死んだ子供たちより、果してよりよき者かどうか、また、子を亡くしたために、彼が更によくなりそうな
めど でもついているかどうか、読了後の筆者には、そこに毛筋ほどの敬意も希望ももてなかったのに、それを呼ぶに「犠牲」の語を以 ってするとは、天意人道にも悖 る僭上 の沙汰と言うべきである、
⸺ そんな主旨の、批評とよりは、若き父親の義憤から発した抗議の如き文章を、某紙の文芸欄に投書した。
早速、同じ紙上に、秋聲からの、⸺ 家内に死なれたり、子供を亡くしたりで、ひどく気落ちがしているところを、鈍刀で、ごしごしと
鋸挽 きにされたのではやりきれない、という風な、作品から受けていた感じとはだいぶ隔たりのある、存外すなお な返事が出たので、今さら気の毒に思ったこともあるが、それでも、好きにはなれなかった。
内容は、徳田秋聲の二番目の子どもが疫痢にかかり死んでしまう様子をつづったものです。
その淡々とした書きっぷりと「犠牲」というタイトルが里見さんを刺激しちゃったようです。
「当時文壇で不評を買った」という話は、徳田秋聲記念館の「寸々語」というコラムの中にもありました。⤵
怒ったのは里見さんだけではなかったみたいです。
ももももこ 2016.12.21 きのうろくすっぽご紹介いたしませんでしたが「犠牲者」とは大正5年、長女の瑞子さんをわずか12歳で病気で亡くしてしまった顛末が書かれた短編小説です。当時その書きざまが非情だとして文壇で批判を浴びましたが、秋聲自身それに真っ向から反論するほか、後にアレは泣きながら書いたとも記しており、ひとの悲しみの深さは他人にどう見えたとて本人にしかはかれないものだとつくづく思わされる一品です。そのあたりが読みどころなのであって、牛の目だって!ヒー!とか本来はしゃいではならぬ作品なのです。なかにはその娘さんの赤ちゃん時代のお顔の描写に「こいつの鼻は豚の口のようだ」という牛の目以上に辛辣なセリフもあり、豚の口だって!ヒー!鼻ですらない!となったりもするのですが、それもすべて作品の大事な要素として機能しておりますので、そこだけ取り出してはならぬところです。
秋聲先生のおうちにははま夫人との間に7人の子どもさんがありまして、上から一穂(かずほ)・瑞子(みずこ)・襄二(じょうじ)・喜代子・三作(さんさく)・雅彦・百子(ももこ)さんの四男三女です。男の子だけ見ましたら、上から一、二、三がついて四男の雅彦さんだけ急に雅彦…アレッ四は??となってしまうのですが、雅彦さんだけ易者さんにつけてもらったそう(そう、まだ占いの話を引きずっていますよ!!)。このくだり、秋聲自身も語っておりますが、八木書店版『徳田秋聲全集』月報36のご遺族座談会でも話題にのぼっており、編集者T氏による「4番目はいろいろ付けるのにも、あんまり縁起が良くない数だからかもしれませんね」との相槌に、なるほど納得するのです。
ちなみにご本人談によると、喜代子さんの戸籍上の名は「喜代」だそう。それが秋聲もみんなも喜代子喜代子と呼ぶので通称・喜代子さんと館でもお呼びしております。百子さんも「百子」で届けを出したら、「百々子」が正しいといって直されてしまったようで、ご本人がそれじゃあ「ももももこ」だから嫌い!!と仰っているので、館では「百子」さんと表記することにしております。
そうと知ったら読んでみたい
しかし、ないんです原本が、、、、なにせ大正6年の本ですから。
本は入手できませんでしたが、デジタルコレクションでありました! ⤵
⤴ ここで読めます。読みにくいけど ww
読みました
案外、里見さんが激怒するほどの衝撃はありませんでした。
「黴」で免疫がついちゃったんでしょうか、わたし。
確かに、疫痢で亡くなった長女の瑞子さんへの情の薄さは相当なものです。
端子ちゃんのことは『黴』でも書いていましたが、秋聲は全然可愛く思ってなかったようです。ハッキリ書いていますもの。
「こいつの鼻は豚の口のようだ」
私はその頃目立って可笑しく見えた彼女の鼻を見て、時々笑った。
端子は神経の弱々しいその兄の時分のように、滅多に泣いたりじれたりするようなことはなかったが、たまには母親を困らせるようなこともあった。四つくらいの時分に、彼女はふとしたことから機嫌を損なって、茶の間の襖にへばりついて、心から怒ったように、独りで泣いていた。私は彼女の兄のめそめそした泣声に惹きつけられるような悲哀をそそられたが、女である端子の意地っ張りな泣き方には、反って一種の可笑味を感じた。そして人をも寄せ付けないで、際限なく泣いている彼女の様子をからかい面で眺めていた。
P.62
うーん・・ 端子ちゃん、可哀そう・・・・。
しかし、里見弴がいう
「犠牲とは、さほどでない者が、よりよき者を、更によくするために身を亡ぼす場合にだけ許される、容易ならざる言葉で、この作品の父親が、死んだ子供たちより、果してよりよき者かどうか、また、子を亡くしたために、彼が更によくなりそうな
という点については微妙です。
なぜならタイトルは「犠牲者」ですが、文中には「犠牲」という文字が出てこないからです。
そういえば「和解」という作品も、読んでみたら、厳密には和解ではなかったです。
「和解」にしても「犠牲者」にしても、秋聲さんは、ハっとする刺激的なタイトルをつけたかったのかしら。
ツッコんで欲しい、なんていう知能犯だったりして。。。。
私が本文で後味が悪いと思ったところ
ところで。「犠牲者」を読んで、私は端子さんの亡くなるシーンについてより、
義理の母親に対する書きざまに人間性を疑いました。
秋聲の妻-はまの母親に対してです。
それから長男以外の子供たちにも愛情が希薄です。可哀そうに。
私はこの赤子に対して、その頃自分の長男に持っていたような自然の愛情を感ずることは、どうしても出来なかったが、さりとて自分のその他の子どもに対するそれに比べて、そんなに差等があろうとも思えなかった。
「犠牲者」 p.98 10行目
妻の母親のこと⤵
老婆は久しい間の田舎からの要求で、年上の従姉に急き立てられて、うまれおちるから手にかけて来た六人の孫と別れて、初夏の頃に帰って行ったのであったが、他人の手にはとても任しきれないようなこまごました日常の用事に立ち働いてくれる老人を手離すことは妻にとっては大いなる苦痛であった。そしてお人好しで剛情で、手足の割には頭脳の働きの鈍い、意気地のない彼女の気質に対して、良人の私と同じような不満を感じて、始終小言を浴びせかけながらも、自分たちの家庭にはなくてはならない大切な道具を失ったような不自由を感じていた。
「犠牲者」 p.102 11行目
私は自分の生活などについて全く理解を持つことのできないこの母親 ( 妻の母 ) を、小さいときには自分の犠牲的愛情を払い、一人前の人間になっても、尊敬と誇りとを感じてくれる自分の生みの母親に比べて、精神的教養の少ない彼女に多くの不満を感じないわけにいかなかった。
「犠牲者」 p.103 61行目
今日の朝ごはん
金兵衛のお魚弁当です
お魚は二種類も入ってる。
赤魚西京味噌漬け焼きと、銀ひらす西京漬け焼き
ちょっとおかずが多すぎる
うほおーーーーっ
今日の夜ごはん
朝ごはんがたっぷりだったので、あまりお腹が空いてない。
だから3品。
牛肉とセロリの炒め物
この組み合わせ、好きなんです。
牛肉もセロリもさっと炒めるだけです。
あまりクタクタやると美味しくないので、さささっです。
長芋は輪切りにして塩を振り、炒めるだけ。
・・・あまりお腹が空いてない、とか言っていて、〆にパスタでした。
これはいつものペペロンチーノではありません。
牛肉とセロリの炒め煮で、残った汁を使いました。
だから牛肉の旨み満点。
身内だから出来るわざでしょうね、残り汁だなんて。おほほ。