Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

61号鉄塔下の家

 

蕁麻(いらくさ)の家』を読み始めました。

萩原朔太郎さんの長女・葉子さんが書かれた自伝的小説です。

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先日探訪した北沢川緑道にあった「萩原朔太郎・葉子の文学碑」から、

代田の鉄塔下にあったという萩原朔太郎邸 ( 三角屋根の家 ) が気になって読みたくなったのです。

 

(せん)に目を通した朔太郎さんの『底本青猫』はちんぷんかんぷんで、私にはさっぱりわかりません。

私は詩というものがわからんのです。

それで方向転換。

家のことは葉子さんの小説にも書いてあるというので読み始めたワケです。

 

冒頭からありました

蕁麻(いらくさ)の家』は、代田のその家が建つ前の話が冒頭から書かれていました。

こんな風に⤵

 

萩原家はかなり複雑な事情を抱えていて、この自叙伝もかなり悲惨な話です。

冒頭の部分からも、家庭内のいざこざやパワーバランスがわかります。

 

  • 父・朔太郎は、文学の中だけに生きる人で、母・稲子は、若い男と駆け落ちして行方不明
  • 妹・明子は育児放棄の犠牲で、脳に障害を負っている
  • 祖母・ケイは、朔太郎から孫を押しつけられたことと、ふしだらな嫁への憎悪を孫に向け虐待

 

少女時代の葉子さんが住む《三角屋根の家》は、夢のつまったマイホームではなかったんです。

設計は父がしたとはいえ、家の持主はどうやら祖母らしく、

萩原家の実権を握っていた祖母にとって、孫たち ( 葉子と明子 ) はまさに居候だった。

 

 

 

さて、そんな『蕁麻(いらくさ)の家』= 萩原朔太郎の旧居  がどこに建っていたのかが、

今回知りたかったこと。

 

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文学碑には、「61号鉄塔のすぐ下に昭和8年に建てられた」とあるので、

てっきり61号鉄塔の南側 ( 坂下方向 ) と思っていました。

 

昭和8年築ですし、借家であり、朔太郎が亡くなった年 ( 1942年・昭和17年 ) を考えても現存しないとは思います。

 

航空写真を見ても、

現在のものにも ※鉄塔は白〇の所 それらしきものはない。

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55年前、昭和36年 (1961) ~昭和39年 (1964) の写真では更地に見えます。

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75年前、昭和20年 (1945) ~ 昭和25年 (1950) の写真は

不鮮明で判別不能。

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昭和8年 ( 1933 ) に建てられたというのだから、

昭和11年 (1936) 頃のこの写真なら、

どこかに写っているはずですが、不鮮明で全くわからない。

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私が入手できた航空写真ではわかりませんでしたが、

昨日、たまうきさんからこんなコメントを頂戴し、気になっていました。

その写真を見てみたいなぁと。

 

今の航空写真だと萩原朔太郎終焉の地はピンが正に鉄塔の場所になっています。昔の写真は見辛いですが、67年の写真では鉄塔のすぐたもと、黒い車が停まっている駐車場のところに三角屋根の様なものが確認出来ます。



そんな折、読み始めた『蕁麻(いらくさ)の家』で、新事実判明!

所在地は、鉄塔の南ではなく、鉄塔の西側であったような記述がありました。

竹藪の地所は角地になっていて、北西の方は少し隔った家並につづく平地であるが、

東側は高圧線の塔が聳(そび)え、その裏が公園のような空地になって、ブランコが一台雨に濡れていた。

南側の斜面は坂道が川までつづき~

この家の大事な位置にある巽の方角は私の部屋の東側の窓に当り、

高圧線の高い鉄塔が真向かいに見えている。 

 

 

南側から見たこの写真でいうと、鉄塔があるのは写真の右側になります。

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先日、撮った写真でいうと、 ( これは上写真の真裏から撮ったものです ) 

写真奥が南なので、鉄塔の右側の、通りを隔てた赤丸の所に建っていたのではないでしょうか。

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建っていた時期も、『蕁麻(いらくさ)の家』の年譜で判明しました。

  • 1933年 ( 昭和8年 ) 1月、朔太郎の設計による家が完成し世田谷区代田に転居
  • 1942年 ( 昭和17年 ) 5月11日、朔太郎、急性肺炎のため自宅で死去
  • 1944年 ( 昭和19年 )  祖母の意志で、葉子の結婚後、叔父 ( 朔太郎の弟 ) 一家に家を明け渡す ( 祖母は、叔父に家を与える代わりに妹の世話を世話をすることを約束させる )
  • 1945年 ( 昭和20年 ) 5月、東京へB29が飛来し、世田谷区代田の家が全焼する 

 

 

因みに、年譜にはこんなことも書かれていました。

1947年 ( 昭和22年 ) 葉子27歳

  4月、妹を施設から引き取る。

  祖母が叔父一家に家を明け渡す時、妹の世話をする約束をしたにもかかわらず、

  施設に入れたまま送金もしていなかったことが判る。 

1951年 ( 昭和26年 ) 

  12月20日、祖母死去 ( 享年84 ) 

 

祖母は、明子が施設に入れられていたことや、息子 ( 葉子にとって叔父 ) が約束をやぶり、明子を放棄し送金もしていなかったことを知っていたかどうかは、年譜ではわかりませんが、これを読むだけでもドロドロした負の遺産が続いていたことが窺えます。

 

 

蕁麻(いらくさ)の家』は、最後にとびきり悲惨な話が待ち構えている様子。

それは冒頭の家相の話 ( 長子がニ十歳になった時 ) が伏線になっているのかも知れません。

文学者の父娘としては、幸田露伴と文も色々問題を抱えた家庭でした。

幸田文さんも葉子さん同様、子供の頃は決して幸せとは言えなかったし、

それをモデルに書いた『弟』を読んでも、気の滅入る話です。

しかし、、、、これはあくまで私の好みの問題ですが、私は幸田文さんの小説の方が好きかも知れません。

文さんの小説は文学的にもかなり高い水準のものだし、何よりも文体が好き。

対して萩原葉子さんの小説は、文学的というよりエッセーに近いもののように思います。

 

 

(はな)の目的《三角屋根の家の場所》がつかめたところで、本を降りることも出来ます。

けれども、なんとかいいながらも、読了してしまうだろうなあ、と思う私です。

 

 

 

 

本日の朝ごはん

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コーン缶に牛乳を入れ、ミキサーにかけた簡単ポタージュと、

ブトウ入りのサラダで、簡単なパン朝食

 

 

本日の夜ごはん

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肌寒い今日は、おすいとんのリクエスト

簡単でいいやね!

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