去年から今年にかけて読んだ小説にある共通点があった。
物語に「癩病」の人物が出てくることだ。
昔から差別や誤解や偏見もあった病気なので、件の表記を差別的に感じる人も多く、
歴史的以外での使用は避けられるのが一般的だそうだ。
私自身、どのように書けば、良いのかわからない。
不用意な書き方をして、不快なおもいをさせてしまっては、と思うと難しい。
だが、あまり回りくどくすれば返って逆差別にもなるやも知れず、
要点がぶれてしまうので、ここは小説に表記されている言葉で話をすすめようと思う。
読んだのはこの三冊。
年代の古い順に並べると、こうなる。
- 尾崎紅葉『巴波川』明治23年 発表。
- 折口信夫『身毒丸』大正 6年 発表。
- 寺山修司『身毒丸』昭和53年 初演。
寺山修司の「身毒丸」は、折口信夫の小説を下敷きにしたものだが、病気についての書かれ方は違う。
具体的には下記で説明するが、
明治・大正・昭和と、作品が書かれた年代により「癩」の描かれ方 捉え方が異なり、変遷が伺える。
時代がさかのぼればさかのぼるほど、誤解や偏見に満ちたものだったようである。
寺山修司『身毒丸』
寺山修司『身毒丸』は、継母と身毒丸との情愛を描いた話。
継母は「母を売る店」で買われた子持ちの女であった。
美しく利発な身毒丸の代りに、自分の産んだ子を世継ぎにしたい継母は、身毒を憎んだ。
身毒丸は、継母に失明させられ、さらに癩病に侵され、追い出されてしまう。
この作品においては、皮膚が爛れてしまう病気として書かれているが、
罹患した身毒が継母に化けて義弟を襲うシーンにこんなことが書かれている。
身毒に対してせんさくが言う。
「いやだ、そばに来ないでくれ」
「来るな、癩病がうつる」
折口信夫『身毒丸』
折口信夫『身毒丸』は、先祖伝来の病を持つ田楽師の息子として身毒丸は描かれている。
身毒丸は可愛い童から美しい若者に成長していく。そこに一座の親方である師匠の妖しい関係を示唆されているが、師匠が身毒丸から女を遠ざけるのは、業の病が原因ではないかという見方もできる話なのだ。
身毒丸の父-信吉法師は、息子が九つの時、彼を捨ててどこかに行ってしまう。
父が出奔する冒頭の部分には、病気のことが何とも意味深な描き方になっていた。
その晩は、更けて月が
上 つた。身毒は夜中にふと目を醒ました。見ると、信吉法師 が彼の肩を持つて、揺ぶつてゐたのである。
――おまへにはまだ分るまいがね」といふ言葉を前提に、彼れこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話してゐたが、大抵は覚えてゐない。此頃になつて、それは、遠い昔の夢の断れ片ハシの様にも思はれ出した。唯この前提が、その時、少しばかり目醒めかけてゐた反抗心を唆つたので、はつきりと頭に印せられたのである。
その時五十を少し出てゐた父親の顔には、二月ほど前から気味わるいむくみが来てゐた。父親が姿を匿す前の晩に着いた、奈良はづれの宿院の風呂の上り場で見た、父の背を今でも覚えてゐる。蝦蟇の肌のやうな、斑点が、膨れた皮膚に隙間なく現れてゐた。
――とうちやんこれは何うしたの」と咎めた彼の顔を見て、返事もしないで面を曇らしたまゝ、急に着物をひつ被つた。記憶を手繰つて行くと、悲しいその夜に、父の語つた言葉がまた胸に浮ぶ。
父及び身毒の身には、先祖から持ち伝へた病気がある。その為に父は得度して、浄い生活をしようとしたのが、ある女の為に堕ちて、田舎聖の田楽法師の仲間に投じた。
父の居つた寺は、どうやら書写山であつたやうな気がする。それだから、身毒も法師になつて、浄い生活を送れというたやうに、稍世間の見え出した此頃の頭には、綜合して考へ出した。
唯、からだを浄く保つことが、父の罪滅しだといふ意味であつたか、血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、一代きりにたやす所以だというたのか、どちらへでも朧気な記憶は心のまゝに傾いた。
件の病いが《遺伝のような》書き方になっていて、
清らかな生活をしていれば発症しないようにも受け取れる書き方で、
異性と交わり、子供を作ることが罪だと示唆しているようにも感じられた。
尾崎紅葉『
『巴波川』は前の2作よりも、非常に差別的な描き方だった。
明治時代には遺伝する病気と誤解されていたし、血統の問題のように考えられていたようだ。
しかも、『巴波川』に登場する宿屋の美女-蔦はハンセン病で、主人公と男性関係を結んだ翌日に、こんな内容の手紙を置いて巴波川に身を投じてしまう。
一筆かきのこし申候。わたくしは今夜うづま川へ身をなげ相果て申候。なくなり候後々までも、きっと愛想づかしの種と思ひ候へば、今までは深くつゝみをり候へども、わたくし事は浅ましき病の片和輪ものゆゑ、一度男に肌ふれ候へば、一時に病発りて、見るさへいまはしき
容 に相成候因果のうまれとて、かたく男を慎みをり候ひしが、いかなる御縁にや御情のほど身にしみじみと嬉しくおもひまゐらせ候へども、疎ましき姿に相成候はゞ、生きがひのなき恥さらし、とても思ひあからめむといろいろに心を叱り候ても、お顔を見るたびにゆかしさまさり、思ひきる気に相成不申候へば、命を捨ててお情けにあづかり申候。日ごろのつつしみを破り候上からは、今にも顔はくづれ、眉毛はぬけて、二目とはみられぬ姿に相成り、世間に疎まれ候事が今より思ひやられてつらく候まゝ、いつそ身を投げ候覚悟いたし候。
蔦が自分の病を「男に肌ふれ合えば発症するもの」と誤解をしているのか、紅葉がこの病を誤解しているのか、世間的にそう認識されていたのかわからない。
紅葉はこの作品で何が言いたかったのかもわからないが、明治期にはこれくらいの大きな誤解と偏見に満ちたものだったのかと想像すると恐ろしくなった。
三作に共通しているのは、発症する前の人物が皆《美しい》と書かれていることだったが、一体これはどういう訳なのだろうか。
話は変わるが、夫の実家、草津温泉は古くからハンセン病の湯治患者がいた場所である。
ハンセン病の患者に対する周囲の恐れもあったらしい。
差別や偏見を受けた患者が自暴自棄になり、乱暴になったり、という負の連鎖もあったらしい。
国は、患者に対して強制隔離や避妊強要など、間違った政策をとった。
草津には、二つの異なった施設があった。
1つは、ハンセン病患者の救済のために尽力したコンウォール・リー女史の療養所。
もう1つは、高齢となったリー女史が引退し、各施設が閉鎖された後に作られた栗生泉園。
二つの施設の性質は全くことなり、
コンウォール・リー女史が設立した療養所は、患者の心のケアや教育まで行う施設。
栗生泉園の方は、国のハンセン病隔離政策によって作られた収容所である。
草津の街中を歩く~コンウォール・リー女史について - garadanikki
リーかあさま記念館 | 日本のハンセン病療養所 | ハンセン病制圧活動サイト Leprosy.jp
聖なる遺産と負なる遺産の二つを有する草津温泉に、折角縁づいたのだから、
これからも、ハンセン病のことを少しずつ考えていきたいと思う。
本日の昼ごはん
絶品の海老チャーハン!
自分で作って、自分で絶品というのもなんだけど、
これはほんとうにおいしくできました。
残念なのは、海老が隠れてしまっていることと、グリーンピースを入れ忘れたこと。
美味しくできた理由をメモしておこ
- 海老の下ごしらえ ⵈⵈ 塩をふり、片栗粉をまぶしておく
- ラードを使う ⵈⵈ やっぱりラードでしょう ('◇')ゞ
- ご飯の下ごしらえ ⵈⵈ 温かいごはんで溶き卵をまぜておく
- 具 ⵈⵈ 長ネギとえのきを細かく切って入れる
- 調味料 ⵈⵈ 味覇~海鮮と、最後に紹興酒
こんな中華スープもあるといいかも
本日の夜ごはん
三品盛りは昨日と同じ。
いぶりがっこ、ちくわぶ煮、冷ややっこ
メインは豚もつ焼き 叙々苑のタレとジンギスカンのタレを半々
わさび菜が一番合うかもしれません