小田急線、世田谷代田の駅前広場に巨大な足跡が描かれている。
地名の由来となったダイダラボッチの足跡を表したものだ。
ダイダラボッチとは何なのか、ダイダラボッチの足跡といわれる場所はどこなのか、
を知りたくてこの本を読んだ。
左は小学生にわかりやすいような会話形式で綴られている。
ダイダラボッチの伝説は、代田のみならず全国各地にあるらしい。
今と違い、離れた地域の情報を知るよしもない太古の昔に、各地で発生した巨人伝説の名前が似かよるというのは興味深い。
「ダイダラボッチ」「デエダラボッチ」「ダイダラボウ」「ダダボウシ」「デーデーボ」などなど。
件の読本は代田の話のみならず、各地の巨人伝説のことにも触れているが、
参考とされたのは、各地の風土記の他、柳田國男さんの本だった。
なので原本も⤵
柳田國男集 収録「ダイダラ坊の足跡」
柳田國男さんは、民俗学の第一人者。
国内を旅して民族・伝承を調査し日本の民俗学の確立に尽力した人である。
ネットのある昨今なら簡単に情報収集が出来るが、柳田さんの時代は実際に歩き、古老の話を聞き、書物を収集するなど全て自分でしなければならなかったから大変な労力。
柳田さんの研究成果は膨大なもので、今でも民俗学の礎になっていると聞く。
勿論個別の分野で他者の論文・論説と異なり、論争になるケースもあるだろうが、
研究の質、量、多用性、公平性の面から、柳田説が支持されることも多いらしい。
「ダイダラ坊の足跡」
とはいえ、彼の著書で全てが明らかになるかといえば、そうではない。
柳田國男が「ダイダラ坊の足跡」を書いたのは昭和2年、代田を歩き回ったのは100年近く前のことだ。
彼が実際に見た「長さ約百閒もあるかと思ふ右片足の跡が1つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地」は、今はない。
その窪地を特定するには、埋め立てられたり開発される前の土地の様子がわかる資料や、地元古老の話を収集する必要がある。
そうして考えられた「ダイダラ坊の足跡」の場所がこちらだ。
「代田のダイダラボッチ 巨人伝説読本」より借用
以前、拙記事「代田散歩」にたまうきさんが寄せてくださったコメントが大正解!
ダイダラボッチ伝説のもとになった窪地はどこだろと航空写真を眺めていたら、1940年代には新代田(切通し)から代田にかけて窪地が続いてように見えます。ただ60年代にはすっかり住宅地になって窪地が確認出来ません。
新代田 ( 南 ) から代田 ( 北上する ) にかけての窪地の左側の部分にが、足跡の場所なのだそうだ。
航空写真で見ると⤵ 1947年頃の航空写真
※ 赤線は北澤川 ( 旧北沢用水 ) の支流で通称「だいだらぼっち川」と言われていた用水路。
中央に見える旧守川小学校の北側 ( クリーム色の斜線の場所 ) が「足跡の場所」と言われている。
ついでに陰影図⤵
当時の場所について、代田の古老・故 今津博さんがこう書いている。
守山小学校北側に出頭山という立派な杉林があり、その中に「ダイダラボッチの足跡」と言われている窪地があり、噴き出す湧水で池ができ、その中央に弁天様が祀られていた。昭和の初めごろまでは、遊びに疲れた子供達がその湧水で喉を潤していた。
『昔の代田』2007年刊 代田の古老・故 今津博さん著
だいだらぼっち川は下記サイト様の地図でよくわかります。⤵
もうひとつ今津さんの話で、私にとって興味深い記述があった。
ダイダラボッチは昭和三十年代に桜ゴムの工場から出た石灰殻で埋め立てられ、住宅地になった。
はて、桜ゴム? どこかで聞いたような名前だ。
桜護謨は、昔、下高井戸から松原あたりを歩き回った時にみつけた大豪邸「中村家」の当主が社長をされている会社だった。
自分が歩いて気になって調べたことのある人や会社が、こういうことで繋がっていたりするのは、散歩と同じようにワクワクするものである。
「開校当時の風景は校舎の位置が正確ではない点がありますが、ダイダラボッチのあった弁天池が具体的に描かれていて貴重であることから掲載した。」とのこと。
この絵は下北沢小学校蔵のもので、読本から拝借しました。
参考資料
北沢川文化遺産保存の会 きむらけん著「巨人伝説読本 代田のダイダラボッチ」
北沢川文化遺産保存の会 きむらけん著「代田のダイダラボッチ」
柳田國男 著「ダイダラ坊の足跡」
川のプロムナード「森厳寺川・だいだらぼっち川 - 川のプロムナード」
本日の昼ごはん
本日の夜ごはん
昨夜同様、深川飯のひとりご飯