昨日に続き、
森巌寺の開基である結城秀康の数奇な人生のお話です。
結城秀康はかえすがえす不運の人だった
徳川家康の次男でありながら、長男・信康 亡きあとの後継者になれなかった、それが秀康である。
彼は、豊臣秀吉のもとに養子 ( 実質的には人質 ) に出され、徳川家は異母弟の秀忠が継ぐ。
※ 秀忠の母の方が、彼の母より身分が高く、家康の寵愛が厚かったかららしい。
人質に大阪に赴いた秀康は、秀吉から我が子のように可愛がられた。
※ 養父の「秀」と実父の「康」の字が与えられたもの。
彼は羽柴秀康と名乗り、豊臣秀吉から養子としても武将として厚く遇される。
しかし、秀吉に実子鶴松が誕生すると状況は一変。
鶴松は幼くして亡くなるが、家康の実子である秀康が秀吉の後継者になることはあり得ない。
このまま豊臣家中に置けば、武勇に優れたこの養子を担ぎ上げる家臣がでてくるかも知れない。
秀吉は秀康を、他の家の養子におくりこむことにした。
白羽の矢がたったのは、北関東の大名であった結城家で、秀康は結城の姓を名乗ることになる。
秀吉の死後、北関東を守っていた武勇が認められた秀康は、家康から越前を与えられ、姓も松平となる。
しかし、それから数年後、秀康は病で斃れる。
34歳の短い生涯だった。
昨日の森巌寺の記事の、江戸名所図会の文章にはこう書かれている。
「森巌寺 淨光院と称するは、越州黄門 秀康卿の法号をとり寺の号としたと伝。
清誉上人 その師 萬世上人の遺命を奉し、慶長十二年 丁未四月 当寺を開創。」
これは、江戸にもどることが出来なかった秀康の命だった。
「自分が死んだら江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよ」
森巌寺は、死してやっと江戸にもどった秀康の居場所であった。
件の話は、森巌寺の「寺歴と由来」にも詳しいが、
下記サイト「天下を継げなかった男~結城秀康」等もわかりやすいので、
興味のある方は是非。
天下を継げなかった男~「将軍の兄」結城秀康 – Guidoor Media | ガイドアメディア
結城秀康とは 文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる – 戦国武将列伝Ω 武将辞典
本日の昼ごはん
味噌煮込みうどん
本日の軽食
買出先、練馬IMAのくら寿司でひとつふたつ、と思っていたが
たっぷり食べてしまった。
本日の夜ごはん
練馬IMA、魚力祭。
まずは塩辛とふぐの唐揚げ
あらま、おいしいこと。ふかふかでした
イカのコロッケも美味しい!
くら寿司でたっぷり食べてしまったので、今夜は品数少な目。
とじこみは、森巌寺のホームページ
森巌寺のホームページにみる「結城秀康」
開基である結城秀康公は、その誕生から没するまでの三十四年間波乱万丈な生涯を送りました。母於万の方は、家康公の正室築山殿の奥女中でありました。秀康公を身籠ると築山殿を気づかい重臣の本多重次の屋敷に匿われ、そこで秀康公を出産いたしました。家康公の次男として誕生しながら、父との初対面は三歳の時。不憫に思った兄信康公の取計らいによるものでした。
数年後その兄が亡くなり、本来であれば秀康公が徳川の後継者となるはずでしたが、十歳で豊臣秀吉の下へ養子に出されました。これは小牧・長久手の戦の後の秀吉・家康公間の和解条件でありました。幼少の頃より文武に優れた秀康公は、養父秀吉の評価も高く、若年でありながら武勇に名を馳せました。秀吉に実子が誕生すると、婚姻により下総国結城家の家督を継ぎ、実父家康公の下へと戻ることになりました。
秀吉の死後起こった関ヶ原の役では、西上を懇願するも却下されました。秀康公以外に関東へ残す陣営を任せられる人材はないと判断されたためか、上杉景勝を牽制する留守居の役目を与えられました。その大役ゆえに合戦後の増封高は第一位で、このとき越前六十七万石の藩主となりました。江戸から遠く離れた越前での臨終に際して秀康公は、一乗院住職万世和尚に自分の死後に江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました。
この遺命を託された万世和尚が高齢だったため、弟子の清譽存廓上人に託して、慶長13年(1608年)に當寺を開山。その建立にあたっては隣接する北沢八幡別当寺とし、森巖寺一帯は天領となりました。そしてその八幡を山号、秀康公の法名浄光院殿森巖道慰運正大居士にちなんで浄光院を院号寺号として、八幡山浄光院森巖寺と命名されました。徳川家の位牌所の多くは天下泰平後に創建されていますが、森巖寺はその直前に建てられた由緒ある寺院です。
本堂は2度の火災に遭いましたが、ご位牌は阿弥陀如来の元にある厨子に安置されています。徳川家の位牌所のひとつであるため、建造物などのそこかしこに三つ葉葵の紋が見受けられます。昭和の始めまで秀康公と関係の深い松平家の子孫が年一回森巖寺を訪れ、それを本堂からつながる奥行きの長い玄関で迎え、葵の紋の入った漆塗りの食器でおもてなしをするのが恒例だったと言われています。またかつては淡島堂で行われていた施灸も有名でありました。山門に掲げられる『粟嶋の灸』の看板は、その名残です。