「もういいよ」と言われること承知の上で、
弘法湯と森巌寺の繫がりについて書きました。
下記は、弘法湯についてまとめたものです。
- 江戸時代に神泉穏亡谷という火葬場のあったあたりに湧き水が出た。
- 湧水を利用して、上豊沢村十七戸の共有で村持の共同浴場が出来た。
- 佐藤豊蔵という人が浴場の権利を買い、浴場を完備した。
- 神経痛、できものに効くと言われ、東京下町方面から入浴にくる者が増加した。
- 弘法湯の休憩所では手狭となり、佐藤家が神泉館を隣設した。
- 休憩所と料理旅館を兼ね益々繁昌した弘法湯には、芸妓も入るようになった。
この弘法湯にもうひとつ、世田谷・森巌寺が絡んできます。
- 世田谷区の森巌寺では、淡島の灸が人気だった。
- 「灸をした後に弘法湯で温まると効果がある」という噂から《森巌寺の灸→弘法湯》というコースが広まった。
さらにここに、富士講が絡んできます。
- 渋谷・道玄坂には富士講の大先達吉田家があった。
- 富士山帰りの人たちが吉田家に挨拶に寄った帰りに弘法湯に入るようになった。
- 更に模擬富士が流行ると、森巌寺に作られた模擬富士の参拝者も弘法湯へ来るようになった。
ちょっとわかりにくいかも知れないので、少し説明を加えます。
富士講の話から
- 富士山信仰の起源は室町からあったが、やがて富士登山をする人々が「富士講」という結社を作るようになった。
- その中のひとつ「山吉御水講」は、渋谷の大地主・吉田平左衛門が始めた結社だった。
- 平左衛門は
食行 という有名な行者の直弟子で、富士山頂の金名水を発見したことでも有名になり「山吉御水講」は大きな結社になった。 - そして平左衛門は、富士山に直接参詣できない人たちの為の「模造富士」にも着目し、一役買った。
江戸では富士山に行けない体の弱い人や老人・婦女子の為に模造富士が造られるようになり、模造富士詣が大流行します。そしてここに森巌寺に模擬富士を作りたいという人が登場します。願主は三軒茶屋の新兵衛さんという人で、彼は、三軒茶屋の地名になった三軒 ( 田中屋・しがらき、堀江 ) のひとつ田中屋の主人でした。新兵衛さんは富士の築造に際して下北沢村 名主にことわりの手紙を書きます。その際、保証人として名を連ねたのが「山吉御水講」の平左衛門でした。
一札之事
此度私共心願ニ付御村内森巌寺様御境内 鍋島山先規ゟ有来候御築山、講中ニ而
築足シ再造奉納致度候処、御他分之儀二付 貴殿発起入同様御世話頼入御承知被下、
則御村方万事差支無之様御取計被下候 上は、私共幷ニ講中一統引請右築山
永代格別見苦鋪無之様年々手入致 万事取計可申候、仍〔依〕之一札入置申所如件、
願主 新兵衛 判
文政四年 巳三月
道玄坂 講中惣代平左衛門 判
下北澤村
名主 半 蔵 殿
念書画像は、北沢1丁目の「富士講碑」: 平成作庭記+α より引用
こうして「森巌寺」と「山吉御水講」は太いパイプでつながった。
森巌寺から弘法湯には灸の客が流れてきていたが、
森巌寺に模擬富士が出来たことで、模擬富士の参拝者も弘法湯に来るようになった。
因みに、
以前 森巌寺を訪ずれた際に撮影した写真に
門前の石柱を写したものがある。
そこに彫られている「北 ほりのうち」を見て、私は、杉並の堀之内と思っていたのだが、
世田谷・森巌寺と渋谷・弘法湯の関係から、渋谷の「ほりのうち」かも知れないと思った。
※ 渋谷「ほりのうち」は「中通3丁目」となり現在は「渋谷三丁目」となる。
山吉水講や富士講については、
限定公開「まるさんの資料置場」(個人の備忘録サイト) に記事があります。
興味をもたれ、ご覧いただけるという方は、
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