Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

デジタル化をコピーして、再びデジタル化

 

代田連絡線のことを知り、Wikipediaにあった『鉄道ピクトリアル』に書かれた過去記事を実際に読んでみたくなり、翌日の火曜日にも国立国会図書館に行ってきた。

これはオンラインで読めればよいのだが、著作権法の関係で図書館まで行かないと読めないものだった。

 

国立図書館は雑誌が豊富なので、1973年5月に発行された本誌の記事も複写してきた。

 

いつも思うのだが、図書館というのはどうして紙を使いたがるのだろうか。

マイクロフィルム化されている新聞も、デジタル化されている雑誌や書籍も、

複写というとアナログのコピーである。

折角デジタル化されている資料をもう一度、紙焼きにする意味がよくわからない。

国立図書館の複写コーナーでは一日に何枚の紙を使うのかな。

 

プリントアウトしたという明細書まで、B5用紙を一枚も使っている⤵

 

デジタル化された資料なら、メールで一発で送信できるのに、

どうして図書館に行ってプリントアウトをしなければいけないの?

本当に不思議。

 

 

ということで今日は、

デジタル化された『鉄道ピクトリアル』の表紙と「井の頭線戦災記 空襲 そして戦後の井の頭線について」p.59~61をコピーしてきたものを、

再び私がデジタル化してみました。

 

 

 

電車のことに詳しくないので、クハとかデハといったもののイメージがつかめなかったが、緊急事態で敷設した様子がよくわかる記事だった。

 

この記事でわかった代田連絡線が引かれたポイント

  • 空襲によって井の頭線が甚大な被害を受けた
  • 空襲が始まった時には運の悪いことに車庫にはほとんど車両が集まっていたので全滅に近い状態だった。31両の在籍車の内、助かったのは7両のみだった。
  • 当時の杉並・世田谷はまだ空襲の標的になる地域ではなかったにも関わらず被害にあったのは「アメリカは 永福町にある車両車庫の建物を飛行機の格納庫と思って、こんな辺ぴな永福町に焼夷弾を落としたのだ。そうでなければ下北沢あたりを残してこっちにくるはずがない」などと、もっともらしん言う人もいた。証拠はわからず仕舞いで、単なるうわさの域を出ないが、こんな流言もあった。
  • 多線から応援を仰ぐことになったが、井の頭線は他線との連絡がなく、やむなく、代田2丁目から小田原線の世田谷代田まで644mに、軍隊の手で連絡線を敷設した。
  • 当時はまだ空襲をうけるかも知れなかったので、住民も代替地を与えられ、喜んで立ち退いたという。
  • 連絡線が完成し、小田原線の車両の入線第一弾が入ったのが昭和20年6月。小田原線からの車両は計10両におよび、このほか国鉄青梅線から4両 借入した。
  • 代田連絡線はその後の新車の入線その他にも有効に使用されたが、昭和28年に撤去され、用地は旧地主に返還された。

 

本日の朝ごはん

サラダパスタを作りすぎてしまった。

 

 

本日の昼ごはん

国立国会図書館3日目の食堂ご飯

 

 

 

本日の夜ごはん

 

三品盛 真ん中は快心の自作佃煮 ごぼうとイワシを炊きました

 

長芋が残っていたので、ステーキ風に

美味しかったのだけど、全体的に醤油味多め (;'∀')