昨日は、国立国会図書館で古い地図を沢山見比べ、複写して持ち帰ったものを深夜まで眺めて過ごした。
そして今日、面白いものを見つけてしまった。
※ 大変ローカルな話ではなはだ申し訳なく、いつものことながら興味のない方は飛ばしてください。
三枚の写真は順に1937年 ( 昭和12 )、1945年 ( 昭和20 )、1955年 ( 昭和30 ) の同じ場所である。
東京都世田谷区の西南の地図なのだけれど、拡大したのがコチラ
昭和12年の地図
8年後の昭和20年の地図
10年後の昭和30年の地図
よく見ると、真ん中の昭和20年の地図には二つを結ぶ線路のようなものがある。
真ん中の写真を拡大したものがコチラ⤵
青が井の頭線、緑が小田急線。
下北沢駅から西に一駅行った駅から赤い路線があって、小田急線と井の頭線が連結している。
地図にこの路線があるのは昭和20年だけで、昭和30年には跡形もなく消失している。
新しい路線が誕生することはあっても、東京で敷設されたものが廃線になるケースは珍しい。
気になって調べてみたところ、これは幻の路線で《代田連絡線》というものだった。
代田連絡線 ウィキペディアから
代田連絡線は、現在の小田急線の世田谷代田駅 ( 旧 東京急行小田原線・世田ヶ谷中原駅 ) から、
現在の京王井の頭線の新代田駅 ( 旧 東京急行井の頭線・代田二丁目 ) までを結ぶ連絡線だった。
敷設の理由と歴史
1945年 ( 昭和10年 ) 5月25日の東京大空襲で、東京急行電鉄井の頭線は甚大な被害を受けた。
永福町駅にあった永福町検車区が被災し、渋谷-神泉間のトンネルに駅員らが人力で避難させた2両などを除いた大半の車両が消失してしまった。
井の頭線は接続する路線との連絡線がなく、車両補充が困難であったことと、当時、小田急線と井の頭線は両方とも同じ会社 ( 「大東急」と呼ばれた東京急行電鉄 ) であったことから、この代田連絡線を緊急に敷設し、他路線からの借入車や新車の搬入、被災車両の搬出、借入車の返却を行う応急処置的要素が強い路線だった。
その為、建設用地は強制収用された土地があてられた。
なるほど、それで幻の路線か。
ということで今日も国立国会図書館に行き、代田連絡線に関する資料を探して来よう。
本日の朝ごはん
釜玉うどん
本日の昼ごはん
国立国会図書館 2日目 サバの味噌煮定食
本日の夜ごはん
三品盛りはホッキ貝のサラダ、カモのロースト、ブロッコリーのだし漬し
マグロの刺身と
豚足のステーキ
かぶりついたら、固くて味が薄くて食べられたものじゃない。
路線変更して、煮卵の液 ( 八角入り ) で煮こんでみた⤵
ダメじゃ、やっぱり美味しくない。
豚足はただ茹でて、酢味噌で食べるのがやっぱり良かったようです。
慌ててもう一品は厚揚げ