Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

コレット「さすらいの女」の挿絵

 

今週読みだしているのがコレットの『さすらいの女』という小説

 

コレットの自伝的作品。

支配的な画家の夫から離れ寄席芸人をしているルネの厳しくも自由な日々が描かれている。

 

作品の夫は《画家》になっているが、実際のコレットの夫は14歳年上の《人気作家》だった。

作品の話をする前に、コレットの前半生を簡単にまとめておく。⤵

  • 夫ウィリーは、コレットを自分のゴーストライターにしていた。
  • 彼女が書いた作品「クロディーヌ」シリーズ が大ヒット。
  • 夫の女性問題や浪費癖により夫婦間に隙間風が吹き始め、金に困った夫が「クロディーヌ」シリーズの版権をコレットに内緒で売りさばいてしまった。
  • コレットは夫と別れ、クロディーヌシリーズの作者が自分であることを発表。
  • 作家として独り立ちしたコレットは、パントマイムや女優として舞台に立つなど、表現の場を広げていくようになった。

 

コレットは今まで『ジジ』『青い麦』『シェリ』など読んできたが、

今回の『さすらいの女』は趣が全く違う。一番好きな本かも知れない。

夫から支配され庇護されてきた女が自由を求めて飛び出し、自分の力で生きていく心理的状況が生き生きと記されている。

自由を手にした主人公が、今の境遇を謳歌している様が小気味よい。

目下の私には、別の労働、別の心配事が付きまとっており、なかでも問題は、自分の暮らしを建てること、自分のマイムや、ダンスや、声音をお金に交換することだ……私はそれにすぐ慣れてしまったし、きわめて女性的な、お金に対する欲得ずくから、それを趣味にもしてしまった。私は自分で暮らしを立てている、これは事実。初めの頃はわれとわが身に、自分で暮らしを立てているのだと、うれしげに何度も言ってきかしてものだ!

われわれの離婚は、だれにも全然理解してもらえなかった。しかし、その以前にも、私の辛抱や、私の長期間にわたる、意気地のない完全な気前のよさを、少しでもわかってくれる人がいただろうか?

『彼女は悲しみで死にそうだ……彼女は悲しみで死んだ……』こんな決まり文句を聞いたら、哀れみよりも疑いの気持ちで首をかしげなけばならない。女が悲しみで死ぬなんてことは、ほとんどあり得ないのだから。女は頑丈な、なぐっても死なないように動物なのだ!悲しみが女を蝕んでいくなどと考えられるだろうか?とんでもない。生まれながらにして柔弱で病身の女性は、悲しむことによって、丈夫な神経と、強靭な自尊心、そして彼女を成長させる、待望し忍耐する能力と、幸福な人の持つ横柄さを身につけるのだ。悩んだり、気持ちを抑えたりするうちに、女性は、危険をともない毎日の体操のように、自分を訓練し慣らしてしまう……つまり彼女は、この上なく悲痛で、この上なく心地よい、あらゆる誘惑のうちで最上のもの、復讐という誘惑と隣り合わせているのだ。

    ~中略~

嫉妬によに燃えつつ秘め隠していた苦悩によって形成され、精錬された長期間の忍耐が、その女性を硬化させたことには一点の疑いもない。そういう女性を、人々はこう呼ぶ。

「あの女は鋼鉄でできている」

彼女は単に《女でできている》だけのことで、そういえば十分だのに。

孤独……自由……パントマイム役者で踊り子という、楽しくもあり辛くもある私の仕事……気持ちよく疲れている筋肉、そして、自分自身で食費や、衣料費や、家賃を稼ぐという新しい気苦労が、以前の気苦労を忘れさせてくれている……これこそが、突如として私に巡り合わせた運命なのだ

 

 

さて、上記の抜粋は彼女の内面を語った部分だが、

芸人小屋の人々の描写も興味深い。

そして今回 目をみはったのは、挿絵だった。

 

中央公論社 世界の文学セレクション36は人気シリーズだが、

特に今回の「さすらいの女」の挿絵は素晴らしい。

一体、なんという方が描いているのか気になる。

 

末尾解説にはこう書かれていた

なお挿画は1924年刊行のソシエテ・デュ・リーブル・ダール版によった。

画家はミシュ Mich である。

 

Mich……一体どんな人物なのか、調べてみることにした。

その話は次回に続く

 

 

 

 

本日の昼ごはん

簡単にパンと卵とコーンスープ

 

 

本日の夜ごはん

三品盛は、タラモサラダ、白菜の漬物、ピーマンツナマヨ

ほうれん草はバター炒め

 

里芋を煮ました。出汁をたっぷりとって

サバを焼きました ぷしーーー