豪徳寺には説明板がとても多い。
下の説明板には、井伊直孝の娘と側室 ( 娘の母 ) がこの寺を井伊家の菩提寺に相応しいように大造したことが書かれている。
大谿山 豪徳寺 ( 曹洞宗 )豪徳寺は、世田谷城主 吉良政忠が文明12年 ( 1480 ) に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝えられる
弘徳院 を前身とする。天正12年 ( 1584 ) 、中興開山門菴宗関 ( 高輪泉岳寺の開山 ) の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年 ( 1633 ) 彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号にちなみ豪徳寺と改称した。
直孝の娘・
掃雲院 は、母の春光院 ( 直孝側室 ) と供に、多くの堂舎を建立寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿と三世仏 ( 阿弥陀、釈迦、弥勒 ) 像、達磨、大権修理 菩薩像、石灯籠二基、梵鐘など井伊家ゆかりの文化財のほか、同寺の草創を物語る洞春院 ( 吉良政忠 ) と弘徳院の宝篋印塔 も残されている。
平成20年3月、境内西側にある井伊家代々の墓所が国史跡に指定された。ここには二代藩主井伊直孝を初め、桜田門外の変で落命した直弼など、江戸で亡くなった歴代藩主とその家族の墓がある。ほかにも、直弼の死後、墓守として一生を終えた遠城謙道の墓や桜田殉難八士之碑等の石碑もある。
掃雲院が作らせたという三世仏
左から阿弥陀、 釈迦、弥勒
左 ) 達磨大師座像 右 ) 大権修理菩薩倚像
歴史の表舞台には登場しない掃雲院
掃雲院 ( 亀姫 ) は、一般の井伊家系図 ( ウィキペディアなど ) には載っていない。
正室・側室がいて、何十人もの子供の名を全部書き込むことは不可能だし、
男子でも、世子や後継者候補になった子供以外は割愛されているから、娘の記載などないのが当たり前。
下の寛政重修諸家譜は、1520巻もの中に大名の家の系図を全部網羅したものだ。
この179巻の67頁から井伊直孝の功績と家族のことが書かれている。
だが、この中に亀姫の記述は一切ない。
掃雲院という人物が存在したことは、専ら豪徳寺や永平寺などの史料にみられることから明らかになっているが、これは豪徳寺の
これは三世仏に付いている造像銘文というものだ。
このような整然と明瞭な銘文が残されていることも稀だとのこと。
こういうものが無ければ掃雲院の名は残っていなかった。
掃雲院という人
掃雲院は元和元年 ( 1615 ) に彦根藩主 井伊直孝の長女に生まれた。
母は側室の春光院で、掃雲院の幼名は亀姫と伝えられている。
この年は大阪夏の陣によって豊臣氏が滅亡し、江戸幕府の基礎が一段と強固になった年。
亀姫には十歳年下の同腹の弟 亀之介がいる、後の彦根藩主 直澄である。
亀姫と亀之介の母 春光院は『井伊年譜』⇊によると、俗名をお安の方といい、石居九郎兵衛 道種の子であった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2578148/1/19
⤴こんなのがスラスラ読めたら楽しいだろうな
掃雲院は生涯独身で終えた
『井伊年譜』には「有ㇾ故 不ㇾ嫁」 ( 巻1 ) 、「有ㇾ故 不縁」 ( 巻九 ) とあるのみでその理由を明記しないが、『永平寺史』によると、徳川氏に嫁することが決まっていたのが破断になったためという。
iss.ndl.go.jp 下巻 924、1259頁
ただしこの本には、その論拠については明示されていない。
理由は判然としないが、とにかく掃雲院は仏教に深く帰依し、一生を信仰に捧げることになった。
永平寺仏殿の再興にも助力したと伝えられ、また銀子三百枚を
現在も永平寺の承陽殿下壇に、井伊直弼とともに掃雲院の位牌が安置させていることからも、彼女の永平寺への貢献の大きさがうかがい知ることが出来る。
もしも掃雲院やその母の春光院が寺の寄進をしていなかったら、その名前は歴史から埋もれてしまっていただろう。
本日の朝ごはん
金ちゃんラーメン
本日の軽食
サンドイッチ 宮崎に行った時に食べたトマトと卵のサンドイッチ
本日の夜ごはん
鶏めし