Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

豪徳寺 梵鐘で思うこと

 

豪徳寺、山門で止まってしまったが中に入ろう。

境内中央に案内図があったので全体像を把握。

 

山門に近いところから、まず ⑩ の地蔵堂

新しい建物だと思ったら、令和2年 ( 2020年 ) 9月に落慶されたものだった。

扉が閉まっていてお地蔵様は拝見できなかったが、

土日、正月、お彼岸、お盆に開帳されるらしいので再訪しよう。

 

⑨ 鐘楼

梵鐘

延宝7年 ( 1679年 ) に完成の後、今日まで移動なくここにある。

形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。

 

製作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。

また世田谷代官大場市之丞基吉寛が幹事となっている。

豪徳寺の梵鐘説明版 ( 世田谷教員委員会 ) より抜粋

 

この梵鐘は、1679年に近江 大掾だいじょう 藤原正次 ( 通称釜六 ) によって制作された。

施主は井伊直孝の長女・亀姫 ( 掃雲院 ) で、豪徳寺第4世 天極秀道 和尚による銘文には深く仏法に帰依していた掃雲院が、父直孝の冥福のため豪徳寺に多くの浄財を寄進し伽藍の造営を行ったことが記されている。

写真は世田谷区のHP ( 撮影 清水襄さん ) をお借りしました

 

 

悪い癖で私は、美術品や建築よりも人物の方に興味が向いてしまう。

上の説明板を読んでも「形姿が美しい」といった文言より、

《鋳物師の近江 大掾だいじょう 藤原正次 》のことや、

《世田谷代官 ( 2代目 ) 大場市之丞吉寛が、いつどういう理由で幹事になったのか》とか、

《施主の亀姫 ( 掃雲院 ) のひととなり》が気になってしまう。

 

特に興味深いのが大場市之丞 吉寛

大場氏は、中世には世田谷城主・吉良氏の家臣となり「吉良四天王」と呼ばれ、

吉良家が没落すると世田谷に留まり、帰農してこの地を開墾「代田七人衆」として円乗院を創建。

 ※ 齋田2家も七人衆 。代田村 - 下北沢百科 齋田記念館について – 齋田記念館

徳川の世になり、井伊家が世田谷領15ヶ村を領有することになった際には代官職を命じられている。

 ※ 世田谷代官屋敷 - Wikipedia 

   3<近世の世田谷>世田谷代官大場氏とは? |

   ジュニア講座 | 世田谷デジタルミュージアム

近代では、第13代当主・大場信續氏 ( 13代当主 ) が世田谷信用金庫を設立し、信邦氏 、信秀氏、信綱氏と四代にわたって理事長を歴任するほか、私塾・学校の創設、鉄道の敷設、土地区画整理、文化・伝統行事の保存など、その時代ごとに、世田谷の発展へ貢献してきている。

 ※ https://www.shinkin.co.jp/setagaya/pdf/dis/dis_omoayu.pdf

 

恥ずかしながら私は、世田谷区長を7期務めた大場啓二氏のことも、この大場家の関係者だと思い込んでいたが、流石にそれは違った。

区長はともかくも、大場家は600年も昔から世田谷にあって、ここを治める主が変わろうとも、世の流れに準じて奉仕を続け、代々世田谷に貢献してきた家である。

 

 

ちなみにこちらは、大場家の方らしく、家系図をアップされているblog.livedoor.jp

 

主人筋の吉良家の系図がかなり不明なのに比べて、

大場家や齋田家の方が系図が残っているのは、代々その土地を離れずにいたからなのかも知れない。

 

 

15日の昼ごはん

サンドイッチ

 

15日の夜ごはん

朝からバラ肉をことこと炊いています

一時間半茹でてお湯を切り、酒・醤油・みりんで1時間煮て、豚の角煮の出来上がり