Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

横松和平太さんのこと

 

名所名跡の由緒書や解説文を読むと、知らない世界が広がり不思議なことに気づかされるから面白い。

特に私は「なんとかさんが、どうしたこうした」という話が好物で、そういうものを読むと、人物像や背景にあるものを探りたくなる。

今回は長いこと吉良氏のことに夢中だったが、もうひとつ松陰神社の銅像も気になっていた。

 

昔、参拝した時に見た吉田松陰像とは別に、新しい吉田松陰像があったのだが、、、

左は昭和33年制作のもの。右が平成25年制作のもの。

 

 

新しい方の説明書きを読んで、ある疑問を抱いた。

吉田松陰先生像

( 鋳造:平成25年 ブロンズ )

明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像 ( 石膏 松陰神社所蔵 ) から鋳造されたブロンズ像。

松陰神社ご鎮座130周年 ( 平成24年 ) の記念事業として東京芸術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。

平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。

※ 大熊氏廣 ( 安政3年 ( 1856 ) ~昭和9年 ( 1934 ) ) 明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21~22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名

これなんですがね、気になったのは

「何故、明治に作られた石膏像を、123年も経ってブロンズ像にしたのか」ということ。

それと「当時、大熊氏廣先生が作られた石膏はどうなったのか」ということ。

説明書きには、オリジナルの石膏像は《松陰神社 所蔵》とあるから見てみたい。

 

帰宅して、これらについてネットで調べ始めると、全く同じ疑問を持たれた方に巡り合った。

横松和平太さん

立松和宏さんは《横松和平太》というペンネームでホームページを開設されている。

ja1cty.servehttp.com

 

立松 ( 横松さん ) さんはご自身のHPの「吉田松陰 その姿」に、こう書かれている。

説明文には、どこか釈然としないものが残った。

明治23年に既に松陰像が出来ていたのだ。しかし銅像として完成したのは平成25年だ。とすると完成迄120年以上かかったということになる。もとの石膏像は神社所蔵とあるがどこにあるのか? 品川弥二郎はどんな助言をしたのか? また、幾度かの改作がされ、親族は満足し当時完成したというが本当か? 本当ならどうして鋳造に至らなかったのか? 建設できなかったのは何故か? 資金不足なのか、松陰の弟子たちは高位高官に出世していたはずだが、そこにはどんな事情があったのか?

立松さんはそれらの疑問を次々と追及、丹念に調べつくし、ある答えを導き出された。

 

「吉田松陰 その姿」はPDFになっているけれど、とても詳しく調べ上げて解説してくださっているので、是非全文読んでみてください。

http://ja1cty.servehttp.com/TATEMATSU/yoshida-syouinA.pdf

 

立松さんは松陰に関した本や資料を読みつくす。

大熊氏廣さんの作品一覧にも目を通されたが、そこには松陰像の写真はなく、

一覧に吉田松陰という文字が小さく書かれているだけだったという。

だがついにオリジナルの石膏像の写真が掲載された書籍にたどり着く。

この写真は既に見ていて、意識の何処かにメモリーされていたのだが忘れられていたのだ。だから〝何処かで見たはず〟だったのだ。 あらためてこの写真を眺めてみれば、この神社にある他の像とはまるで異なっているのが明らかだった。

大熊先生のオリジナル石膏像と、東京藝大が模して作ったというブロンズ像は似ていなかったらしい。

当初の石膏像と似ても似つかないものを作り上げ、大熊氏広作と称してもよいものか?

何故に120年も真央の大熊の石膏像のことを、ことさら持ち出したのだろう。そもそも彼の名前が必要だったのか?東京芸術大学製作で良いのではないのか?

全くもって同感。

説明書きにわざわざ100年以上昔の石膏像と著作者の名前を持ち出す意味がわからない。

新しく東京藝大が作成した、ではなぜいけなかったのだろうかと私も思う。

私が最初に抱いた疑問はやはり、ある違和感から来たものだったのだ。

 

そんな疑問点を、私はすぐにネットに頼り、答えを得ようとしてしまう。

参考文献の追っかけ読みはするけれど、自分自身で一から探すことは出来ていない。

しかし立松さんは違う。常にアンテナを張ってご自分の行動力で追及されている。

その探求心と膨大な読書量に感服する。

 

私がやりたいのはこういう作業なのだと思う。

もちろん立松さんの足元にも及ばないが、見習わせていただきたいと思った次第。

 

今、私の手元には立松さんの著書がある。

ひとつひとつが深くて、参考文献が山のようで、

スラスラと先に進めない、適当にスラスラ進んだら勿体ないほどの、

内容の濃い本に出会ってしまった。嬉しい悲鳴 あうーーーっ!

 

 

 

立松さんも書いていらっしゃるが、

松陰といえば有名なこの肖像画も、老成すぎてとても満29歳の若さで刑死した人には見えない。

箱崎公園で見た吉田松陰像もこの通り、どこから見てもおじいさん。

最初の肖像画は、松下村塾の門下生・松浦亀太郎が、松陰が江戸に護送される直前に慌ただしく描かれたものだそうで、絵にしても肖像にしても、師のイメージをもっと崇高なものにしたいという門下生や親族の想いが働いたものなのかも知れない。

先生のことを尊敬に値するイメージにしたい気持ちはわからないでもない、

だがやはり「盛りすぎじゃない?」と言いたくなる。

 

 

 

因みに箱崎の松陰像にはこんな説明書きがついていた。

箱崎の吉田松陰像の由来

本校校舎がまだ旧東京市日本橋区箱崎小学校として使われていた昭和12年の末に、尋常6年生として在学していた岩井光子という生徒が亡くなった。光子さんは3年生の頃から病気のために学校を休みがちであったが、成績は優秀で、とくに授業で担任の先生から教わった吉田松陰の生き方に深く心を動かされていた。  卒業を3ヶ月後にひかえて亡くなる際に、自分の貯金を示しながら、学校に松陰先生の銅像を建ててくれるように両親に遺言した。両親は貧しいながらも苦労してこの遺言を実現し、昭和13年3月22日に盛大な除幕式が行われた。

 

製作者は竹内蘭山で、この話を開いて感激した海軍大将高橋三吉が「松陰先生」の文字を書いた。当時、この物語は教育美談として伝えられ、東京日々新聞が表彰を行い、時の文部大臣、東京市教育局視学課長等が参列した。

 

昭和14年9月、螢雪書院より「愛国少女光子さんの遺言で出来た吉田松陰銅像の話」という小冊子が発行されて、徳富蘇峰が題辞を寄せている。

 

昭和19年4月に本校がこの地に移転した時、松陰像も引き継いで今日に至っている。

なお、台座の左右には上に掲げた、光子さんが好んでいた松陰の歌二首及び次のような文字が彫られている。

 

 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも

   とどめ置かまし大和魂 親思ふ心にまさる親ごころ

      けふの音づれ何ときくらん

 

本校第六学年在学中病没せる長女光子の遺言により精神教育資料として之を建つ

昭和十三年三月二十二日

 寄贈者 父 岩井五郎

garadanikki.hatenablog.com

 

10年前、箱崎でこの銅像を見た時にも《老けすぎ》と思った。

徳富蘇峰さんが「銅像の話の小冊子に題辞を寄せた」と知り縁を感じた。

『愛国少女光子さんの遺言で出来た吉田松陰銅像の話』という小冊子を読みたくて探しまくったが、力不足で見つけることは出来なかった。

www.aozora.gr.jp

 

 

 

本日の朝ごはん

ざるそば つるりん

昨日 作りすぎたもみじ卸をつゆに入れた。

美味しいけれど、むせた。

 

 

本日の昼ごはん

いつもは昼夜2食なのに、今日は3食。

 

本日の夜ごはん

昼にたっぷりご飯を食べたので全然おなかが空かないね、とこんな感じのつまみ

練馬IMAのお肉屋さん特性のウィンナー

 

ハパンコルプをカリカリしながら、最後にバーボンを飲む。うしし