Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

松陰神社 松陰像と松下村塾

 

世田谷八幡宮を出て、最寄りの宮坂から世田谷線に乗ろう。

ホームに貼られているマップ 

 

向いに古い世田谷線の電車が置いてある。今日は時間がないのでスルー

まだかなまだかな。

この待っている時間が愉しい

 

松陰神社駅で下車し、5分ほど歩いたところに神社があります。

夕陽に輝く参道の木

 

松陰神社

ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命のりかたのみこと ( 吉田松陰 先生 ) 

松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾 松下村塾しょうかそんじゅくを主催し、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年 ( 1863 ) に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫たいぶの所領で大夫山だいぶと呼ばれていたこの地に改葬されました。

明治15年 ( 1882 ) 11月 松陰先生門下の人々が相談し、墓畔 に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。

 


吉田松陰像があった。

吉田松陰先生像

( 鋳造:平成25年 ブロンズ ) 

明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像 ( 石膏 松陰神社所蔵 ) から鋳造されたブロンズ像。松陰神社ご鎮座130周年 ( 平成24年 ) の記念事業として東京芸術大学に依頼し、ほぼ一年をかけ石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこまわれた。

※ 大熊氏廣 ( 安政3年 ( 1856 ) ~昭和9年 ( 1934 ) )
明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリア人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21~22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名

あれ?平成25年って結構新しいブロンズ像だ。

松陰神社には40年近く前に来たけれど、

その時には、これとは違う松陰さんの銅像があったような気がする。

それに松下村塾の建物も参道に入って左側にあった気がするけれどそれがない。

古い記憶ですから違うかしら。

お参りをして右手を見たら、ありました。松下村塾の建物。

ここに移動したのかな?

 

松下村塾の古瓦ですってよ

模造 松下村塾の古瓦

昭和13年、国士館構内に模造松下村塾を建築するにあたり、すべての建築材料は萩で集め、詳細に模倣して建てられましたが、その際に使用された古瓦です。

幕末期の毛利藩代官屋敷の古瓦であり、毛利家お抱え瓦職の阿川家が焼いたもので、瓦に「阿」の刻印が見られます。

 ( 現在、建物に使用している瓦は複製です ) 

これも本物ではなく、模造の瓦だった。

で、やはり松下村塾はこれとは別に建てられていたことがわかった。

 

三井住友トラスト不動産のホームページは、

世田谷や渋谷の名所の新旧の写真が掲示されていて、とても参考になるのだが、

そこに紹介されていた記事がコチラ⤵

写真は1938(昭和13)年、「松陰神社」に隣接する「国士舘」が学内に「松下村塾」を精密に模築し「景松塾」と名付けた建物。1941(昭和16)年に「松陰神社」境内に寄贈、鳥居脇に移築された。国家社会のリーダーたる「国士」の養成を目的とする「国士舘」は、1917(大正6)年、現在の港区南青山に創られた私塾「國士館」を前身とし、1919(大正8)年、「松下村塾」の系譜を継ぐ学塾を目指し、「松陰神社」に隣接する地へ移転してきた。その後、戦前期に中学校、専門学校などを創設、1958(昭和33)年には大学も設置されるなど、現在では中学校から大学院まで擁する総合学園として発展している。

【画像は昭和戦前期】

smtrc.jp

 

松下村塾の建物の移動経緯がよくわかった。

昭和13年 ( 1938 ) に、国士館の学内に「松下村塾」を精密に模築した「景松塾」が作られた。

昭和16年 ( 1941 ) に、それが松陰神社に寄贈され、境内の鳥居脇に移築。

私が昔見たという松下村塾の模造建築物は、やはりこの鳥居脇のものだった。

 

 

玉木正之乃碑

明治10年3月 ( 萩 ) に玉木家の長男として生まれる。

父 正誼まさよしは、乃木希典の弟。母トヨは吉田松陰の姪。二代目 文之信を継ぐが明治四十年正之に戻る。乃木希典大将の甥として、その葬儀の喪主をつとめる。その前後の事情は渡辺淳一氏著『静寂の声』に詳しい。世田谷に昭和二年まで在住。のち故郷萩に戻り、昭和二十九年二月十一日逝去
永遠 画・記述は孫 辻喜美子建立 平成十一年八月吉日

まああ、とても派手な斑入りの赤石で、刻まれた字が読みにくい 💦

初代・玉木文之進というのは、松下村塾の創立者であり、甥である吉田寅次郎を厳しく指導した人。

その関係で、二代目・玉木文之進を継いだ正之さんの碑があるのでしょうが、

どちらかといえば吉田松陰寄りというよりも、乃木希典寄りの血縁者。

年代的にも松陰さんとはまったくすれ違っていません。

 

 

 

新しい松下村塾 

 

昔、境内にあった石灯籠も場所が変わった様子。

青木周蔵のものありました。

 

境内の左手に、松陰先生の墓所がある。

 

中央が吉田寅次郎さんの墓だが、安政の大獄で獄死したお仲間を初めとする烈士たちと墓の大きさに差をつけていないところが素晴らしい。

 

吉田松陰先生のブロンズ像について、

とても詳しく調べ、わかりやすくお上手な文章を書いていらっしゃる方がいる。

筆者は、横松和平太さんとあり、立松和平さんをもじったのか知らん。

もう一度読み返したいので、ここにリンクを貼っておくことにする。

「吉田松陰 その姿」⤵

http://ja1cty.servehttp.com/TATEMATSU/yoshida-syouinA.pdf

 

 

松陰神社を出て、近くの世田谷区役所を訪ねる。

現在、あの素晴らしい建築だった庁舎 ( 前川國士建築 ) を壊して建て替えようとしているところ。

最後にお別れが出来てよかった。

どうせ来たので、区役所の案内カウンターで、

芹沢新平さんの銅像 ( か写真 ) はもうないのでしょうか? と尋ねてみた。

もうここには置いていないとのことで、新庁舎に設置するのかどうかはまだわからないとのこと。

残念。

 

 

 

本日の昼ごはん

和朝食 昼ごはんで「和朝食」というのも変だね💦

焼き鮭が食べたかったの。

最近、白いご飯にすりごま ( 少し塩を入れて ) をかけて食べるのが気に入っています。

ごま、好き

 

 

 

本日の夜ごはん

ほたて たっぷり♡

ちくわに青のりをまぶして磯部揚げ。

キムチが残っていたので豚バラ肉と炒めました