「吉田松陰と乃木希典とは親戚関係にある」
このことを私は、松陰神社で知った。
松下村塾 ( 模造 ) の脇にあった石標に「玉木正之」なる人物のことが書かれている。
玉木正之乃碑
明治10年3月 ( 萩 ) に玉木家の長男として生まれる。 父
正誼 は、乃木希典の弟。母トヨは吉田松陰の姪。二代目 文之信を継ぐが明治四十年正之に戻る。乃木希典大将の甥として、その葬儀の喪主をつとめる。その前後の事情は渡辺淳一氏著『静寂の声』に詳しい。世田谷に昭和二年まで在住。のち故郷萩に戻り、昭和二十九年二月十一日逝去 永遠画・記述は孫 辻喜美子建立
平成十一年八月吉日
系図を調べると、吉田松陰の周辺 ( 吉田家、杉家、玉木家 ) の系図はややこしい。
昔は子供が出来なかった時、他家の次男坊、三男坊を養子にもらい家督を継がせることが多く、
杉家も、玉木家も、吉田家から養子をとっている。
そんなことから親戚になっていくのだが、これを繰り返している内、親戚同士で夫婦縁組もあり、
より親戚関係が深く複雑になっていく。
そういったわけで乃木家も、玉木家、杉家と親しい仲だったようだ。
乃木家の場合、
乃木希典の弟 ( 乃木十郎希次の四男 ) が、玉木正弘の養子になり正誼となる。
正誼は、明治9年10月31日 萩の乱にて戦死、後年23歳。
正誼の息子・正之は、曾祖父・文之進の名前を継ぐが、後に正之に戻っている。
正之は、乃木希典の甥にあたり、乃木希典のところに身を寄せていて、
乃木夫婦が自刀の時、 ( 夫婦の息子二人は既に戦死 ) 喪主を務めている。
杉家の場合、
民治は、杉家の第六代。
民治の弟は吉田家に養子となる吉田松陰。
民治の娘・豊は玉木正誼に嫁ぎ、正之を産んでいる。
つまり民治にとっては玉木正之は孫にあたる。
そんなことから乃木希典は杉家や玉木家とも親交が深い。
希典は玉木文之進に学んでいるし、
杉民治 ( 弟の妻の父 ) にあてて、正之 ( 甥 ) が無事帰京したので安心するようにと手紙を書いている。
本日の夜ごはん
ホッケを焼いて、昨日のカツの残りとサラダで簡単に
なかなか手に入らない真ほっけ、脂がのって美味しい
サラダは辺さんサラダ
レタス、きゅうり、マッシュルーム、ハムは必須なのです。