吉田松陰 自由研究
( たぶんこれが最後かと思う ほんとか?( ´艸`) )
一坂太郎著『吉田松陰とその家族~兄を信じた妹たち』を読了。
生前の松陰に一番似ているという石刻の写真が掲載されていると知り借りて来た本。
タイトルに「兄を信じた妹たち」とあるように、妹の千代、寿、文のことがよくわかる資料だった。
松陰の動向ももれなく解説されているバランスの良い本だという印象を受けた。
ひとつ意外だったのは、敏三郎のことが全く触れられていないことだ。
祖父、叔父、両親、兄弟たちのことが書かれている中で、ただひとり敏三郎のことが外されている。
意図的なのだろうか、理由はわからないが不思議に思った。
また。
玉木文之進の切腹についても書かれていた。
本書には《自決の現場に立ち会った》とはあるが《介錯した》とは書かれていなかった。
その現場に立ち会ったのが、松陰の長妹児玉芳子 ( かつての千代 ) である。三十二年後の明治四十一年 ( 1908 ) 九月、芳子から回顧談を聴取した記者が書いた次の一文が、短いながらも自決の様子を生々しく伝える。
「
刀自 ( 芳子 ) の叔父玉木氏の門人前原一誠に与 し、同志の多く斃 れ、事総 て志と違 ふ。玉木氏責を引き決する所あり、後山に上る。刀自是に従ふ。萩城下の惨憺たる光景は双眸 ( 両眼 ) に入り来る。玉木氏は自刃と決心しこれを刀自に語る。刀自も亦之を止めず、後顧の慮を抱かずして潔く責任をとらんことをすすむ。時に日は漸く暮れ、雨は今宵の如くしげかしと」 ( 回顧録A )実は文之進の妹佐々木あさ ( かつての乙女 ) と嫁の二人も、芳子より遅れて団子山に登ってきた。三人の女性は文之進から切腹の理由を聞き、芳子のみが居残って見届けることになったのだという ( 吉田理『松陰以前の松下村塾』昭和11年 ) 。
一坂太郎著『吉田松陰とその家族』p.232より
回顧録Aとは『日本及び日本人』増刊号 松陰號に掲載されている
「松陰先生の令妹を訪ふ」松宮丹畝 著の引用と思われる。
吉田理「松陰以前の松下村塾」の方は、
松陰研究叢書 第1卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション で読むことが出来た。
以下が該当する文章を現代仮名遣いにしたもの⤵
彼は十一月六日、官軍海陸より萩に入り、前原等が逃れて山陰路に脱奔するの日、護国山東光寺の先祖の墓に詣る事を家人に告げて飄然として家を出た。然るに玉木の銘児玉芳子がこの事を伝え聞き、その頃玉木が何度も愁いに沈んでいることを思い合わせて、芳子はなんらか一種不吉の予感に駆られて、玉木を追跡して山上に登って来たが、山下に佳していた玉木の妹佐々木あさ及びその嫁の二人もまた聞き伝えて遅れて登って来た。
玉木は妹姪三人に対しつつむ所なく懇ろに切腹の理由を説明し、後事を周到に遺言して弁しさらせたが、児玉芳子一人のみは居残ってその最後を見届けたのである。芳子は玉木の姪であると同時に、松陰の実妹である。時に四十五六歳であったが、この悲劇を前に自若として動じなかったのは、さすがに松陰の妹たるを恥ずかしめぬ女丈夫である。玉木は佐々木あさとその嫁が下山した後、墓前に端座し胸腹を開き、兇礼式の型の如く短刀を執って腹を左より右に切り回し、反えす刀に喉を切って果てた。
吉田 理 著『松陰研究叢書 第1卷』第一篇 松陰自然の松下村塾 九 壮烈なる玉木文之進の切腹 p.46より
この史料により、玉木の自害に女性たちだけが居合わせた事情がよくわかった。
両方とも千代さん ( 児玉芳子 ) が文之進の最期を見届けた、とが書かれているが、
介錯したとの記録はない。
『ろう者から見た杉敏三郎のいきざま』を書かれた山本光矩さんが、
どんな資料から《介錯》の情報を得たのか気になるところだけれど、
私は、ブックマークコメントをくださった たまうきさん同様、
千代さんは介錯まではしていないのではないかと感じている。
ということで今日はこれまで。
本日の昼ごはん
金ちゃんラーメン ( お餅入り )
本日の夜ごはん
ロマネスコが安かったのでホクホクしながら買ってきた。
カリフラワーとブロッコリーのいいとこどりで、本当に美味しい!
豚バラブロックを1.5㎝厚に切りわけ、フライパンでジュージューと焼き目がつくぐらい焼いて、トマトを投入し、焼肉のたれで味をつけたもの。
やんちゃな料理だが、レタスの上に乗せて一緒に食べると元気が出る。