「日本及び日本人」の本に、乃木希典さんも寄稿していたので興味深く読んだ。
さわりだけ転載します。
吉田松陰先生の薫化
乃木希典
余は直接松陰先生より、ご教授を受けし事もなく、又 御面会する機会にも接しなかったため、先生の御行動その他においては、あまり多く語るべき事実も持たないが、その教訓、その感化は、間接とはいえ、深く余の骨髄に浸潤して、幼少よりこの年に至るまで、常住座臥、常に先生の教訓に背かざらん事を力めているが、魯鈍の質、未だその万一をも行うことのできないのは、深く自ら慚愧に耐えない次第である。
その頃 余の父は、旧藩主の御守役を勤めて、永く萩に赴きおりしをもって、先生の講述された、武教全書をはじめ各種の講録を謄写しており、余にも命じて写させられた事がある。これが余の初めて先生を知るの動機であって、幼きながら先生の薫化を心に感じた導火である。その後十六の年より玉木の家にいて、その薫陶を受くる事となってから、玉木及びその婦人より日常先生に関する話を聞き、ますますその非常の人物である事を感じ、また各種先生の著書その他を謄写せしめらるるに及んで、ますます先生の尊崇すべき事を、心頭に銘するようになった。それより常に心掛けて、先生の著書、講録、詩歌等、出版になったならない物も、読みもし、写しもし、東京に出てからも吉田家に残っている先生の遺書等は、出来るだけ拝読して 及んだわけである。
そういう次第で、余の受けた先生の薫化は、皆間接的であるが、玉木及びその夫人から、一挙一動において、先生を模 て訓戒されたので、実に忘れるべからざるものが沢山ある。中にも先生は、非常の勤勉家であったそうで、玉木は常に、寅次郎の半分勉強すれば大丈夫じゃというていた。先生は余り強壮な体質でもなかったそうだが、精神の健全であったためであろう、決して居眠りするとか、欠伸する等のことのなかったとは、屡々しばしば聞かされた所である。また先生は下人や下女を使い、何か用を命ずるに、たとえ自分の内の者なりとも、自分の手に出来得る事を、猥みだりに分付くることなどなかったそうで、自分の衣服調度等は、幼少の頃より人手を借りるなどの事を決してせず、人より催促されて取り片付けし例もなかったと、よく玉木夫人の話さるる事であった。また先生は、老人や、婦女、子供等に対しても、至極温和に、親切に、決して不愛想をしたり、煩さがるようのことなく、充分気をつけて待遇されていたことを、よく模範にあげて、玉木及びその夫人より余を訓戒されたことを、今にも目に見るごとく記憶に存している。
因みに乃木希典さんは、松陰亡きあと、叔父の玉木文之進が松下村塾を再開している時に、通われていたと伝えられている。
乃木さんの実弟は、玉木文之進が長男を亡くされた後に玉木家に養嗣子になり玉木正誼となっている。
玉木正誼の妻は、松陰の長兄・民治の長女で杉 豊子。
そして息子・玉木正之は、正誼が萩の乱で戦死したあと乃木邸に身を寄せていて、
乃木夫妻の葬儀の喪主になっている。
乃木家と玉木家と杉家はそういった縁戚関係だった。
本日の昼ごはん
お雑煮
今年は蒲鉾を買わなかったので、寿の字のなるとです
本日の昼ごはん
カップヌードル坦々麺
本日の夜ごはん
中途半端な時間に担々麺を食べてしまったので、軽めのメニュー
ジャガイモのチーズ焼き
乃木希典の寄稿文全文はこちら⤵
ですけれど、閲覧希望の方はご連絡をいただければ