Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

杉敏三郎の話から考えたこと

 

杉敏三郎は吉田松陰の実弟である。

姓が違うのは、松陰が二男で吉田家に養子に出たからだが、兄弟は一緒に暮らしていた。

私が敏三郎に興味を抱いたのは、彼の顔立ちが吉田松陰に最も似ているといわれていたからだ。

敏三郎は、生まれた時から耳が聞こえぬ ろう者だった。

家族、特に松陰はそんな敏三郎を気にかけ、治療法や教育法を求めて奔走している。

 

今回読んだのは、山本光矩著『ろう者から見た杉敏三郎のいきざま』

この本は、著者自身がろう者である視点から書かれている。

著者が育った環境と、幕末の環境とを比較しながら、松陰の手紙や史料から敏三郎に関して書かれているものを抜粋したり、当時を知る親戚のインタビューなどを紹介しながら敏三郎をつまびらかにしている。

 

本文には、著者が想像する部分もかなり盛り込まれているが、

史実の部分を以下に抜き出してみた。

敏三郎が生きてきた幕末には、現在のように精密な補聴器はもちろん人工内耳もないので、残存聴力を用して発音訓練や聞き取り訓練をする機会はなかった。

家族は、敏三郎に言葉を覚えさせるにはどうしたらよいかと苦悩し続けた。

 

松陰は「王陽明が5歳まで物が言えなったが、親が雲と名を改めると物言えるようになった」と知ると、両親に敏三郎の名を改めるようにと伝えた。

加藤清正廟が霊験あらたかだと聞けば、敏三郎の病気の為の祈祷文を送っている。

ろう者の蘭学者・谷三山を来訪し、助言を求めたりもした。

谷三山から「絵草紙を読ませ、絵を見ながら、絵草紙に書かれている文章を読んで言葉を覚えさせてはどうか」と助言を受けると、江戸から絵草紙を複数送っている。

野山獄につながれると兄弟に手紙をよこし、敏三郎の書初を欲し、敏三郎が書ける字が増えたと聞くとたいそう喜んだ。

自分が江戸に送られる時には、兄と姉に敏三郎の教育を託した。

そして。江戸に発つ直前、敏三郎本人に漢詩を贈っている。

 


松陰は敏三郎が自分と同じ先生になりたいと思っていたようだ。敏三郎が沢山の本を衣服の懐に入れる様子を見て、門下生の前で講義をする自分に憧れていると感じたからである。

この漢詩は敏三郎が先生になることは難しいことをわからせる為、

敏三郎に伝わるようにと漢字を一つ一つ慎重に選びしたためたものらしい。

 

だが、敏三郎が兄の漢詩の意味を理解できるようになったのはずっとあとのこと、

叔父である玉木文之進にこの漢詩を指摘させたからだと考えられる。

 

 

文之進は、甥の松陰が子供の頃も厳しく教育したことで知られる人物だが、

松陰の死後、松下村塾を再興し塾長になると、ろうあの身で松下村塾に出入りする甥・敏三郎を排除する。

文之進は松陰が敏三郎に書いた漢詩を見せ「お前は教師になどなれぬ」と絶望を与えた。

出入りを禁じられ絶望した敏三郎は孤独感を感じ、人が変わったように自室に籠るようになった。

実力主義者の文之進は、家族 ( 敏三郎の姉・千代たち ) がどんなに嘆願しても「軟弱者がどうなろうと知ったことではない」と敏三郎を無視しつづけた。

 

 

このほか、印象に残った話をいくつかあげてみる。

聞こえない赤ちゃんのしぐさ

耳が聞こえない赤ちゃんは、抱っこされると体を反り返らせるのだそうだ。これは聞こえる子が、両親の声や周囲の音をたくさん聞く代わりに、周囲の出来事を余すことなく見て育つためのしぐさなのだそうだ。

 

敏三郎の認知能力について

杉家は、祖父から父、松陰やその家族と読書家であったことが知られているが、敏三郎は、松陰が本を読んでいると、横に座って真似するように本を読むしぐさをしたという。

彼が誕生してから字が書けるようになるまで8年の月日を要したが、

「字が書ける前の敏三郎の読書は、周囲の者を真似してやった事であり、本の内容や漢字の意味は理解できていなかった可能性が高い」と著者はいう。

 

温厚で綺麗好きな性格

甥である吉田小太郎が『叔父杉敏三郎伝』を書いている。

杉敏三郎は手先が器用である、衣服の修繕を引き受け、その他の日用品などを直した。普段からきれい好きであり、それゆえに毎日3・4度、あるいは5・6度、室内を清掃し、日用品をよく片付けた。室内の日用品がない時に聞けば、すぐに取り出して差し出した。対応がとても速かった。

  ~中略~

幼い頃には他家によく出入りしたが、亡くなる7・8年前より自らがろうあである事を自覚し、一切他家へ出入りをしなくなり、いつも静室で座り、衣服の修繕を手掛けた。あるいは先祖供養を行う。せっせと勉強に励み、無為に過ごした日はなかった。飲食は節度を守り、暴飲暴食をせず、酒を飲まず、脂肉を食べなかった。

 

杉千代の話

明治9年10月26日、明治政府に不満を抱く前原一誠を中心に不平士族と吉田氏要因の親戚らが集まり「萩の乱」が起こった。

この戦で、松陰の甥で、吉田家の嗣子となった吉田小太郎も19歳で戦死している。

また、乃木希典の実弟で、玉木家の嗣子となった玉木正誼 ( ※ ) も24歳で戦死している。

松陰の叔父・玉木文之進は、萩の乱の責任を取り、切腹による自害をしている。

そしてこの文之進の介錯を務めたのが、千代だった。

杉千代は吉田松陰のすぐ下の妹である、敏三郎にとっては長姉にあたる。

千代は叔父・文之進が敏三郎を松下村塾に通わせることを拒否したことで不満を抱いていた。

 

と、ここからは著者の想像もふくまれた文章⤵

 ( 文之進は ) 兄の松陰に対して厳しい教育を施し、狂気に溺れさせたとみていた可能性も考えられます。玉木文之進は偏った思想教育で故郷に萩の乱という争いを呼び寄せ、一族を次から次へと死なせた疫病神のような忌々しい存在であり、生かしておいたら、杉一族に更なる不幸が襲い掛かってしまうと判断したのかもしれません。自害を促す形を作り出して、間接的に玉木文之進を殺害することで、蓄積していた怨みを晴らしたのではないでしょうか。玉木文之進が亡くなってからは一族に襲い掛かる不幸はほぼなくなったという状況を考えると杉千代は吉田松陰から託された一族を守ってほしいという願いを果たした形になりました。実際、玉木文之進が亡くなってからの杉千代は安心したかのように吉田松陰についてのインタビューに快諾し、穏やかな雰囲気で話していました。

亡くなってからはどこに眠っているのかわからない状況です。吉田松陰ら一族が眠る墓がある場所には杉千代の義両親、夫の墓はありましたが、杉千代はそれらの墓には入っていません。

もしかしたら、玉木文之進の首を切り落とした私が一族の墓に入る資格はないと思ったか、一族が眠る場所には玉木文之進も含まれていた為なのか、夫である児玉祐之の墓には入らなかったのかもしれません。

 

本書には、このように著者の考えが想像で書かれている部分もある。

読者はこういった文章から、イメージを植え付けられてしまう可能性もある。

著者が自分の責任で自分の本にどのような持論を展開しようが、何ら問題もないと私は思う。

だが、そこにひきずられてしまい鵜呑みにすることは危険だと思う。

自分の目 ( 他の史実や文献も見て ) でみて、自分が思うところを持ち続けなければならないものだと思った。

 

最後に、このようなことを書くのは、id:BullBull-Musaoさんのこのブログを読んだ後だからもある。

記事の中に紹介されていた東京大学教育学部長、石井洋二郎先生の式辞のこの一文が強く心に残ったからである。

ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。 しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。 

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本日の夜ごはん

自分の雑さ加減にうんざりする写真だわ ⤵

珍しく見栄え良く作った三品盛と、何かの一品の写真を撮らずに平らげてある。

今日はバタバタしていたので、いつもの大根と人参とバラ肉の鍋なんですけれど、

〆もうどんの入れ方もひどい。

 

新しい店でみつけたこんな太麺で作りました

 

 

 

追加

京都大学所蔵 吉田松陰の木像

敏三郎にそっくりだといわれている木像