Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

粕谷地蔵尊

 

粕谷村 地蔵尊

17日に蘆花恒春園を訪問し、2日後の19日に再訪したお話です。

前回は家を出るのが遅く、園に着いたのが夕方になり、徳冨旧宅が見学出来なかったのでリベンジ。

 

前回と違うルートで、小田急線・千歳船橋からバスで蘆花恒春園 最寄りのバス停に降り立つ。

三角地帯に立派な地蔵尊があった。

粕谷村地蔵尊

元禄時代 このあたりの難病及び飢饉厄難に苦しめられた善男全女の多くの人々が飢え苦難を逃れんとして當地にこの石沸を建て、心身の安らぎを祈願したと言うものである

 

故に 今日まで この地蔵尊に對する信仰篤く 参拝する人々が多い

 

加うるに 周圍の交通頻繁となり危險を增し乍ら今日に至るも 事故も無く過ぎたる事は 偏に この地蔵尊の御守護によるものと拜察される 誠に 御慈悲の深い有り難い地蔵尊である

 

昭和五十五年四月吉日

撰文 田中粂之助

   妻 ノブ

粂之助さんて、、、どなた?

 

こちらがお地蔵さま

 

絵が掛かっている。

昔のこの辺りの風景を描いたものなのだろうが、一体どなたが描いたのかしら。

素人っぽいところがいい。←プロの絵だったらごめん

資料提供 本橋生市郎氏

 


お地蔵さまの右側には、これまた大きな説明書き。

ん? 縦書き? いやいや、横書き二段だわ。

粕谷延命地蔵尊

粕谷の中心に位置する

著作 田中義男

粕谷延命地蔵尊が鎮座しているこの土地は、その昔 北木間軍千歳村字粕谷という地名で呼ばれ、私の伯父 田中豊三郎・明治二十六年四月二十五日出生が、この地を百坪所有しておりました。

 

敷地向いには、五反・橋場という地名もあり、他に林・宮前など、昭和三十年頃までは一般にそう呼ばれておりました。

 

そして、三方を道に囲まれているこの地の脇には、烏山方向より品川方向へ流れている品川用水があり、ここに掛かる橋をツキトヨ橋といいます。地蔵尊が祀られている祠は、トタン葺き屋根に板で囲われただけの簡素な造りで、人々は雑草をかき分けながら参拝をしておりました。

 

敷地北側には共同小屋があり、農作物の品評会や縁日などが開かれ、当時はたいそうな賑わいをみせておりました。建物の間取りは、各階二十五坪、二階建て延べ床面積五十坪、そして六坪ほどの消防器具置き場としての下屋がありました。一階は、土間コンクリート仕上げ、二階は、畳が敷かれ、二十六人衆の寄合所として利用され、婦人部の踊りの稽古場としても提供されていたようです。建物が建つ三角地尖端には火の見櫓があり、そこには半鐘も下がっており、村内の人々に多目的に利用され名実ともにこの地の中心地でありました。

 

その後、昭和三十四年三月三十日未明にかけて起きた、不審火による粕谷八幡神社全焼のおり、神社敷地内に新しく本殿・社務所を再建する計画が持ち上がりその建物の完了に伴い共同小屋としての役割を終えて建物は解体されました。

 

当時のこの地の世俗を紐解くと、粕谷二十六人衆と呼ばれる者達が、この地域を代表する活躍をしておりました。他の村人からの信頼は厚く、隣村よりいち早く生産運搬用の三輪トラックを購入するなど、時代の先端技術を積極的に取り入れる先進性に満ちた集団でありました。また、共同小屋のすぐ西側には、明治から大正期にかけての文豪として名高い徳冨蘆花先生が水汲みに通っていた品川用水が流れており、その先は広大な甘藷畑が広がっておりました。

 

地蔵尊は、明治十年ごろ荷車に載せられ、一度はこの地から粕谷八幡神社へと安置されたそうです。しかし、その後、村民に疾病が流行したり飢餓に苦しめられたりした為に、再びこの地に戻されたと二十六人衆の一人、関田太兵衛氏から生前伺いました。それからというもの、現在に至るまで変わらず、この地に鎮座しております。

 

昭和三十年前後の当地では、農家は暮れと二月の寒中の一年に二回、周辺地域の得意先から注文を受け、ついた餅を配る習慣がありました。これにより農家は現金収入を得ることができ、また、生活の糧としても重要な一大イベントの様相を呈しておりました。私は伯父豊三郎から頼まれ、餅つきを手伝いに行き大変に感謝されたものです。

 

以上のような、さまざまな謂われに基づく経緯のあるこの土地を、第二次世界大戦後の男手不足に困っていた、私のいとこにあたる千恵の婚家先に農作業を手伝いに行っていたことから、長年にわたる労苦の感謝の意味を込めて、その謝礼にと伯父豊三郎から譲りうけました。

 

私の父、田中粂之助・明治四十二年十二月三日出生・は生前、こまめに地蔵が鎮座するこの地に立ち寄り祠と脇にある石仏の清掃活動に勤しんでおりました。

父は、常々、人は床に入らず命を終わらすことは難しいと言っておりましたが、昭和六十二年二月八日に早朝、いつもの通りの時間に起床し腰掛け椅子に座ったままの姿勢で亡くなりました。当時の平均寿命年数で亡くなりその生涯を全うしました。このように希望する最後を安らかに迎えることができたのも、御利益の賜物であることを私は信じてやみません。このように地域の平和、家内安全、交通禍の予防、難病快癒など諸々の御利益を与え下さることはもとより、また、旅の安全にも大変に御利益があると伝え聞きます。

 

その昔、大山詣の旅人が同中の旅の安全を祈念するため「わらじ」を寄進していたようで、昭和になってからも「わらじ」が下がっていたようです。現在この地蔵尊は、地域住民の心の拠り所として、老若男女はもとより遠方からも多くの人々が訪れ、この地に静かに鎮座し、住民の生活を温かく見守っております。

平成25年6月27日

 

要約するとこんな感じ⤵

地蔵尊があるこの三角地帯は、田中義男さんの伯父・田中豊三郎さんが所有していた土地だった。

後年 伯父から田中義男さんが譲り受けた。

 

地蔵尊は明治10年頃、 粕谷八幡神社へ移動されたが、疾病が流行したり飢餓が起こった為、再びこの地に戻された。 ( 二十六人衆の一人、故関田太兵衛氏談 )

それからずっと、この地に鎮座している。

 

粕谷二十六人衆とは、この地域を代表する活躍をしていた人たち。

他の村人からの信頼も厚く、いち早く生産運搬用の三輪トラックを購入するなど、

時代の先端技術を積極的に取り入れる先進性に満ちた集団だった。

 

地蔵尊の北側には共同小屋があり、二十六人衆の寄合所として利用され、

婦人部の踊りの稽古場としても提供されていた。

建物が建つ三角地尖端には火の見櫓があり半鐘も下がっていた。

この場所は、農作物の品評会や縁日など多目的に利用され、名実ともに粕谷村の中心地だった。

 

共同小屋は、粕谷八幡神社の本殿・社務所を再建されたことに伴い共同小屋の役割を終え、解体された。

 

地蔵尊の西側には、烏山方向から品川方向へ流れる品川用水があり、ツキトヨ橋が架かっていた。

 

なるほどそれがあの絵に描かれた川や小屋だったのか。

 

名所名跡の説明書きは、区や市の教育委員会が書いたものが多いが、ここは個人の手によるものだった。

三角地は今も田中さん個人の所有地なのか、それとも寄付された地なのかはわからないが、説明書きに「 ( 昔は 田中義男さんの父 ) 田中粂之助さんが清掃されていた」とあるように、道祖神や地蔵尊といった種類の建造物は、個人の善意により管理されてきた歴史があり、もしかしたら現在もそういうものなのかも知れない。

 

それにしても綺麗に管理されている。

立派に整備され、掃除もゆきとどいているのを見て、

文字通り、この場所が地域の中心地として愛されているのだと感心した。

 

 


粕谷二十六人衆について

ネット検索ではヒットしなかったが、説明書きにある関田太兵衛さんと、田中粂之助さん、絵を提供された本橋生市郎さんもそうなのかも知れない。

それから、秋山喜左衛門という方も二十六人衆のおひとりだと判明。

blog.goo.ne.jp

 

上のサイトに書かれているように、

26人衆のことは「みみずのたはごと」を読めばもっとわかるかも知れぬ。

やはり今が読み時かな。

 

 

 

 

 

本日の昼ごはん

金ちゃんの鍋焼きうどん

お餅と卵を入れると さらにおいしくなるのさ

 

 

本日の夜ごはん

こんなところから酒盛り開始、、、、

いえいえ、今日は白いご飯で銀だらの西京焼きを食べる!

ご飯が美味しい季節です、いつもかっ(;^_^A