Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

蘆花恒春園に再訪

 

恒春園に再訪。

前回は10分遅く閉門してしまったが、

入園できたとしても邸内を見て回るには暗すぎただろう。

夕陽に輝くネコヤナギ

 

東京都指定史跡

 徳冨蘆花旧宅

    所在地 世田谷区粕谷一丁目二十番一号

    指 定 昭和六十一年三月十日

徳冨蘆花は、肥後国葦北郡水俣村手永(ひごのくにあしきたこおりみなまたむらてなが) ( 現在の熊本県水俣市浜二の六の五 ) に代々惣庄屋を勤めた徳冨家の三男として明治元年 ( 1868 ) 10月25日 ( 旧暦 ) に生まれた。名は健次郎。兄は猪一郎 ( 蘇峰 ) である。明治31年から翌年にかけて『国民新聞』に連載した長編小説『不如帰』が明治文学の中でも有数のベストセラーとなった。

 

明治40年 ( 1907 ) 2月27日青山高樹町の借家から、北多摩郡千歳村字粕谷のこの地に転居した。トルストイの示唆を受け、自ら「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送り、大正2年 ( 1913 ) 6年間の生活記録を『みみずのたはこと』として出版、大正7年 ( 1918 ) には自宅を恒春園と名付けた。昭和2年 ( 1927 ) 7月伊香保に病気療養のため転地するが、同年9月18日駆けつけた兄蘇峰と会見したその夜に満五十八歳で死去した。墓所は旧宅の東側の雑木林の中にあり、墓碑銘は兄蘇峰の筆による。

 

昭和12年 ( 1937 ) 蘆花没後10周年に際し愛子夫人から建物とその敷地及び蘆花の遺品のすべてが当時の東京市に寄付され、翌年2月27日「東京市蘆花恒春園」として開園した。

 

この旧宅は、母屋、梅花書屋、秋水書院の三棟の茅葺き家屋からなり、これらは渡り老化によって連結されている。「美的百姓」として生きた蘆花の20年間にわたる文筆活動の拠点であり、主要な建物は旧態をよくとどめている。

平成14年3月29日

東京都教育委員会

※ 手永とは、肥後藩における行政単位。郡と村の中間、数村または数十村を一つの単位とする。

 

事務局のある建物を抜けると竹林があった。

 

左のスロープは蘆花記念館に入るためのもの

蘆花記念館の建物はかなりくたびれている。

展示館内には誰もいなかったので隅々まで見学し、

ビデオ映像資料も5~6本あったので、全部見てやったぜぃ

※ あまり出てこなかったからか、途中で事務員さんがのぞきにきました

展示資料の中に興味深かった話が一点あった。

 

『黒い眼と茶色の目』騒動について

蘆花がまだ京都同志社の学窓にあった頃、学長・新島襄の義姪にあたる山本久栄との間の悲恋を描いた自伝的小説。作者の言葉によればこの苦恋こそは彼を人生の裏小路へ追い込んでしまった事件だという。

※ 黒い眼は新島襄のこと、茶色の目は山本久栄のこと。

※ 新島襄の妻・八重の兄は山本覚馬。久栄は覚馬の娘。

 

蘆花は初恋の人久栄とのことを書こうと構想を練る。

蘆花は久栄のことをこう記す。

「久栄は余の最初の妻であることを余は断言する。同時に余の愛を受けるに足りなかった幼稚軽佻不貞の妻であったことを断言する。余は新妻に弄ばれ、而して捨てられたことを告白する」

「余は『茶色』で潔く彼女を永久に葬る」

 

更に蘆花はこんなことも言っている。

「『茶色』は余の久栄に対する離縁状」

「久栄は余が離縁した妻ではない、皆が離縁さした妻である。

 細君 ( 愛子夫人のこと ) は余が親迎した妻ではない、皆が結婚さした妻である。

 故に余は満足しなかった」

 

そんな内容の原稿を蘆花は愛子夫人に清書をさせる。

夫婦はもめにもめながらも作品を完成させる。

愛子夫人は苦しみながらも小説家の女房として意地を通した。

『黒い眼と茶色の目』が刊行された直後、愛子夫人は倒れ入院する。

もともと夫人は子宮後屈により生理痛の体質で、病名は子宮内膜炎だった。

 

これらの話を私は『蘆花の妻、愛子』などの資料で読んでいたが、

蘆花記念館には、この騒動に関連してこのような趣旨の文章が書かれていた。

「愛子夫人は『私は後妻ではない』と憤り、そのストレスもあって入院」

どういった資料にもとづくものか知りたかったが、館内は無人、宿題として持ち帰るしかない。

 

interview.field-archive.com

 

さて大夫時間をとってしまったが旧宅の見学に向かう。

恒春園の名の起り

住居 ( すまい ) の雅名 ( がめい ) が欲しくなったので、私の「新春」が出た大正七年に恒春園 ( こうしゅんえん ) と命名しました。台湾の南端に恒春と云ふ地名があります。其恒春に私供の農園があるといふ評判がある時 立って其処に人を使ふてくれぬかとある人から頼まれた事があります。思もかけない事でしたが、縁起が好いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷に私供の住居を恒春園と名づけたのであります。

「みみずのたはことより」 ( 原文のまま )

 

小径をすすむ。

左側の日本家屋は愛子夫人の居宅。

愛子夫人の居宅は、蘆花没10年後に家宅を東京市に寄付した折に、

愛子夫人の要望で東京市が新築したものらしい。

「母屋の北側にある愛子夫人居宅は、寄付後、愛子夫人の要望で東京市が新築しましたが、実際は、短い間しか住んでおらず、三鷹台に家を新築し、もっぱらそこに住んでいました。現在の花の丘一帯にゴミ集積場ができ、風向きによって悪臭がひどく、悩まされたのが原因と言われています。」 (岡山 太陽のそばの果実園サイトより

上記のような理由で愛子夫人は短い間しか住んでいないとのことだが、

現在は、有料予約制で集会場として利用できる施設になっている。

千歳台のゴミ問題

恒春園から環八を挟んで東側には、現在千歳清掃工場がある。

着工は1941年 ( 昭和16年 ) だが太平洋戦争により工事中断で完成したのは10年後のこと。

二代目工場の完成は1971年 ( 昭和46年 ) で、地元の人は「これで悪臭問題から解放された」と安堵した。

焼却炉完成に伴い、隣に作られた温水プールには焼却炉で出た熱が再利用されているが、近隣施設 ( 老人ホームなど ) にも配熱配給するなどしてゴミ処理場の反対運動を緩和させた。

愛子夫人が悪臭に悩まされたのは、千歳清掃工場の着工前にあたり、施設が完備されるまでは恒春園の花の丘一帯 ( 現在の公園東近辺 ) がゴミ捨て場だった。

 

こんなに立派な家だって、異臭があっては住めなかったろうな。

 

愛子夫人居宅から見えるこの建物が、徳冨蘆花旧宅の母屋

建物の左側を回り込んだところに玄関がある。

引っ越した年の秋、お粗末ながら浴室や女中部屋を建築した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には「八畳四畳床の間つきの客室兼物置」 ( 註 現在はない ) を建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。
而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からなる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男がすっかり別荘式になったと云うた。御本邸なしの別荘だが実際 別荘式になった。
みみずのたはこと「故人」から

 

南側から見た別荘式住宅 

右が母屋、白い壁が連絡廊下、左が梅花書屋、中央奥が秋水書院

中はひとまわり見学したが写真撮影NG。

昔の造りなので母屋は特に軒が低かった。

廊下板は薄板がつぎはぎされていて、板間が5ミリほどあいて隙間から下が見える。

ただでさえ日本家屋の建物は隙間っ風が吹いて寒々しいものがだ、

人が住んでいない家というのは、家自体が休眠している態だった。

茅屋

僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。其筈さ、先の家主なる者は素性知れぬ捨子で、赤子の時村に拾はれ、三つの時に人に貰はれ、二十いくつの時養家から建てゝ貰った家だもの。其あとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。

即ち妾宅さ。投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹き通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、ちと真剣に降ると黄色い雨が漏る。

越してきたのは去年の此頃 ( 註 明治40年2月末日指す ) 雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押し寄せてくる武蔵野の春寒、中々春寒料峭位の話ぢゃない

国木田哲夫兄に與へて僕の近状を報ずる書

「二十八人集」より

 

当時からやはり寒かったんだ、この家は。

それにしてもこの「二十八人集」というのは何だろう。

「みみすのたはこと」を斜め読みしたら、やはり「二十八戸」の文字がある。

もしかしたらこの辺に粕谷二十六人衆と関係することが書かれているかも知れない。

 

 

梅花書屋

梅花書屋

この建物は、蘆花が1909年 ( 明治42年 ) 3月に松沢町北沢 ( 現、世田谷区 ) に売家があるとの情報で早速見に行って手付けを渡し、4月20日に建前を行い、5月30日に全部終了した。

 

母屋との間は、踏石を渡って往復した。

梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁 ( 西郷隆盛の書道の師 ) の筆になる横額によるものであり、この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。

梅花書屋の命名以前には、単に「書院」、後には「表書院」とよばれた。

 

現在ある梅花書屋、秋水書院、母屋をつないでいる廊下は秋水書院完成後につくられたものである。

 

 

 

地蔵様が欲しいと云ってたら甲州街道の植木なぞ扱ふ男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の陰に南向きに据ゑてくれた。

八王子の在、高尾山下、浅川付近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一體だと云ふ。眼を半眼に開いて、合掌してござる・・・。

みみずのたはこと「地蔵尊」より

 ( 註 ) この地蔵尊は、大正十二年九月一日の関東大震災の時、倒れたが無事だった。しかし、大正十三年二月十五日の余震で又倒れ、頭が落ちた。蘆花は、これを自分たちの身代わりになったようなものだとして「身代わり地蔵」と命名した。

 

秋水書院

明治維新前十年の建物 ( 今から役百四十年前 )

この建物は、蘆花が烏山に在った古屋を買い取り移築し、1911年 ( 明治44年 ) 1月から春にかけて、立て直したもので通称「奥書院」の名がある。建前は1月24日であった。その日蘆花は当日の午後になってから判ったのだが、当時世間の耳目を集めた大逆事件の犯人とされた弘徳修水以下十二名の死刑の執行の日であった。 ( ただし、一名は25二位に刑を執行 ) 

 

蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが1月中旬に12名が死刑判決を受けることを知ると兄蘇峰及び桂総理宛てに再考の書簡を出した。

 

また1月22日には、第一高等学校 ( 現東京大学 ) 生徒の弁論部委員が演説を依頼にきたので、とっさの思いつきで「謀叛論」と題し2月1日を約束し、当日は草稿も持たず会場に溢れんばかりの生徒達を前に演説した。

 

かくして奥書院は同年春に完成した。蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが、一般に「秋水書院」と呼ばれるようになったのは戦後のことである。

 

蘆花は当時の世相に敏感に反応する人だった。

好き嫌いの線引きがハッキリしていて、一端「嫌い」となるととことん排除する性格のようだ。

幼少期に交友関係を「良い ( 好 ) 人 」「悪い ( 嫌 ) 人」とノートに書き分けたりした。

乃木将軍はお気に入りだったから、「寄生木」の原作者の青年がやってくると歓待した。

乃木夫妻の殉死の報を聞くと、感動して夫妻を称えあげた。

それを聞いた愛子夫人が「私だって ( 夫と ) 一緒に死ぬくらいできます」と言った。

 

他愛もないというか、なんというか、、、やはりこの2人ただものではない。

感情の起伏の激しい者同士、似たもの夫婦なのだろう。

 

 

蘆花夫婦のことをつらつら考えながら見学した恒春園見学は、

時間をかけてたっぷり楽しめた。

もう一度墓石があるエリアに行ってみる。

芦花公園の広大な敷地面積はすべてが蘆花の所有地ではなかったらしい。

蘆花の家屋敷が寄付された後に、東京市が周辺の土地を買い足して今の広さになったそうだ。

 

しかし広い。

明治・大正の文士は、今の作家と違い経済的には潤っていたと思う。

もちろん、全ての作家がそうとはいえないが、円本ブームに乗れた人は幸せだった。

1926年 ( 大正15年 ) から改造社が刊行した『現代日本文学全集』を口火に、

各社から一冊一円の全集が発行された。

それだけ当時の庶民の読書欲が高かった。

印税で「円本成金」になった文士たちは、妻を伴いこぞって外国旅行に出かけた。

 

蘆花は、円本の前の時代の人だけれど、

「不如帰」が大ヒットし、「みみずのたはこと」はロングセラーとなり、印税は大変なものだったはずだ。

因みに、蘆花が愛子夫人を伴って世界一周旅行をしたのは1920年、

旅のことを帰国後『日本から日本へ』を夫人と共著で出版している。

 

東京・高樹町からこの地にやって来た徳富蘆花は、死後もこの地に名を遺すことになった。

駅名やマンションにも「芦花」と名の付くような、そんな作家はめったにいないのではないだろうか。 

 

 

帰りに寄った粕谷の図書館

 

 

 

本日の昼ごはん

MOUさん作 チャーハン

 

 

本日の夜ごはん

骨つき鶏肉で鍋

骨つき鶏肉と、つくねのハーフ&ハーフ

鶏肉はいずれも、神田染谷店のもの。

 

参考資料

www.dwc.doshisha.ac.jp