Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

勝光院 吉良氏の墓所

 

世田谷城址公園から少し迷ったけれど、やっとたどりついた。

ここが勝光院の入り口か、な。

いやいや、門前はこの道のはるか先のようだ。

 

勝光院

閑静な住宅地の中にゆったりとのびる参道、静謐な空間。

 

吉良氏の墓所に伺う前に、まずお寺の方を。

世田谷区指定史跡

吉良氏墓所

所在地 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号 延命山勝光院

所有者 世田谷区桜一丁目二十六番三十五号 宗教法人 勝光院

指 定 平成十三年十一月二十八日

 

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起った。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家はるいえの代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康よりやす氏朝うじともの代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。

 

関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久よりひさは上総国寺崎村 ( 現千葉県 ) に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。

勝光院は天正元年 ( 1573年 ) 、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇よしまさ以降の一族の墓が所在する。全二十八基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。

平成十三年十二月

世田谷教育委員会

 

なんと美しいアプローチだろうか。

アプローチというのも変か、参道ね w

ここにまた案内板

延命山えんめいざん 勝光院しょうこういん ( 曹洞宗 )

勝光院は中世の世田谷領主吉良氏の菩提寺で、その創建は、建武2年 ( 1335年 ) と伝える。初め山号を金渓山きんけいざん、あるいは興善山こうぜんざんといい、寺号を竜鳳寺りゅうほうじと称した。天正元年 ( 1573年 ) 吉良氏朝は父・頼康の菩提を弔うため曹洞宗の僧・天永琳達を中興開山として寺を再興し、父の院号に因んで勝光院と改めた。

 

徳川家康関東入国の天正19年 ( 1591年 ) 、同寺は三十石の朱印地を与えられたが、これは旧吉良氏領内で最も格式の高い寺院であったことを物語るものである。その後、元文2年 ( 1737年 ) に山号を延命山に改めている。

 

天保2年 ( 1831年 ) から3年かけて、伽藍修復のための勧進が行われ、諸堂が再建された。本堂は参道あたりの平地から現在地に引き上げて建て替えられ、文政6年 ( 1823年 ) に建てた書院 ( 区指定有形文化財・建造物 ) も移された。

 

同寺の文化財は、他に元禄11年 ( 1698年 ) 鋳造の梵鐘 ( 区指定有形文化財・工芸品 ) や、墓地のほぼ中央に吉良氏墓所 ( 区史跡 ) がある。

令和4年3月

世田谷区教育委員会

 

元禄11年というと、今から325年前に作られた梵鐘

梵鐘は昔からこの位置にあったのかしら。

本堂と一緒にこの高さの場所に移動したのかな。

この高低差が、さらにお寺の品格をあげる効果があるように感じる。

素晴らしく立派な本堂。

 

歴史を感じる本堂と対照的に、モダンなお線香の火をつけるマシン ( ´艸`)

 

さっきまでいた豪徳寺の賑わいとは違う世界がここにある。

外国の旅行者さんにも、こんな品格のあるお寺を見てほしい。

ちょっと前のわさわさした旅行客ではなく、豪徳寺にいたマナーもわかって、

日本のことが好きで、文化にも触れたいと思うような外国人なら、こちらのお寺も感動すると思う。

この景色、何が素晴らしいか考えてみた。

どの写真にも無機質な他の建物が映り込んでいない。

 

参道を戻って、右手にある吉良氏の墓地に参拝。

 

吉良氏の墓所

同じ武家でも、彦根藩主の井伊家のお墓とは雰囲気が違う。

家格でいえば吉良氏が高いのだろうが、

官位や石高は井伊家の方が上なんだろうから、そういうことで違うのだろうか。

それとも家とかお寺の趣味嗜好考え方?

 

個人的には吉良氏の墓所の方がいいと思う。

ひとのおうちのお墓をあっちが好きだのどうだのというのはおこがましいし、

私ごときが、失礼はなはだしいね、失礼しました。m(__)m

 

 

さて、先日たまうきさんから、こんなメッセージを頂戴していました。

秀吉の小田原城合戦の時に、世田谷城城主であった吉良氏朝は籠城していた小田原城から如何にして上総国生実(千葉)に逃れられたのだろうか?、実は籠城はしていなくて、予め逃れていたのだろうか? 謎です。 

私も気になっていたので、少しだけわかったことを。

結論からいうと、吉良氏は家臣は援軍に出しましたが、氏朝自身が小田原城に援軍に入ったという記録はまったくないそうです。

後北条が敗れたことにより、吉良氏も世田谷城も没収されましたが、

氏朝は ( 戦うこともなく ) 城山の館を放棄しています。

自分の居城をさっさと放棄するくらいです、ひとんちの城を命をかけて守るとは思えません。

 

彼は、世田谷城からいったん下総国にくだり、徳川が江戸城に入った後、

再び世田谷に戻ってきて、実相院で隠居、慶長8年(1603)に死去しています。

氏朝もその父・頼康も戦争を好まない武将だったようです。

 

 

こちらは、SENGOKUというサイトさんのHPから抜粋させていただいたものです。

とてもわかりやすく、史料も豊富に解説してくださっています。

www2.harimaya.com

婚姻関係で領地を守った「戦場に臨まない武将」

後北条氏は小田原城を本城として、相模・武蔵国の各地に支城を整備していったが、

そのまっただなかに吉良氏の二つの居館である世田谷と蒔田があった。

しかし吉良氏は後北条から一度も攻撃を受けていない。

氏朝の父・頼康よりやすの代から後北条と婚姻関係を結んでいたからであろう。

 

吉良氏が発給した文書がいまに伝わっているが、それには武蔵国以外にあてたものは全くない。このことは、頼康が他国と全く交流がなく、小田原以外とは没交渉の武将 ( 戦国領主 ) であったことを示している。戦国期の吉良氏はさきの成高の軍事行動以外、史料の上では合戦に参加したという微証がまったくない。

 

吉良氏は、戦国大名と呼ぶにはほど遠い「戦場に臨まない武将」であった。

このような例は全国にもなく、まことに珍しい戦国大名であったといえよう。

つまり後北条氏は、吉良氏が「足利ご一家衆」であることを利用し懐柔し、あえで滅ぼさず、吉良氏以外の武士団に対して、足利ご一家衆の親戚であることを誇示して、後北条氏の家格を高めることに利用したのである。

 

永禄4年 ( 1561年 ) 、越後の長尾景虎が小田原城を攻撃したが、このとき、吉良頼康は世田谷の大平氏や江戸氏らの軍勢を集めて、蒔田湾にあった軍船をしたてて三浦半島に入ろうとしたが、後北条氏の命令で玉縄城の守備にまわっている。

 

天正18年 ( 1590年 ) 春、豊臣秀吉の小田原征伐が開始された時、吉良氏朝の家臣である江戸摂津守朝忠は、後北条氏により小田原支城の伊豆下田城へ援軍として派遣されたが、秀吉方の水軍の猛攻撃にあって、伊豆下田城で戦死している。

ところが吉良氏朝が小田原城へ救援に赴いたことについての史料は一切残っていない。

小田原の役における氏朝の行動はまったく不明である。

その後の氏朝に関していえば、小田原落城後、隠居して世田谷弦巻村実相院に入り、慶長八年(1603)に死去したことが知られている。

 

 

吉良氏の系図はこちらを参考にしました

dl.ndl.go.jp

 

 

 

本日の昼ごはん

ペペロンチーノが大好きなあなたのために、

作ったのだけれど、いつもとどこか違う。まあいいか、こんなこともあるさ。

答えは、ニンニクを焦がしてしまったからです。

 

 

 

本日の夜ごはん

 

ちくわの磯部揚げは自家製がうまい!

ちょっと焦げてる?

いやいやこれはちくわの最初からの色です。