何回も何回も読み直してしまう本があります。
どの巻も珠玉のエッセーが沢山つまっているんですが、
今読み返しているのが「しつけ帖」です。
幸田文さんのお父さんはいわずと知れた大作家 幸田露伴。
娘をさん付け、父親をさん無しというのもいかがなものか m(__)m
文さんの実の母親は幼い時に亡くなり、継母は家事一切できない人でした。
「衣食住のひと通りは知らなければならない。
女親 ( 継母 ) がうまくないなら、男親が代わって子の面倒をみるのは当然」
と、露伴さんは娘に家事雑用をしつけました。
雑巾の絞り方から豆腐の切り方、障子の張り替え方からはたきのかけ方、
あげくはおしろいの付け方、借金の挨拶も恋の出入りも、みなお父さんに教わったそうです。
「人は父のことをすばらしい物識りだというし、また風変りな変人だというが、
父にいわせれば、おれが物識りなのではなくてそういう人があまりにも物識らずなのだ」
露伴さんのしつけは「まずやってみろ」とやらせ、そのあと手本を見せ、もう一度やらせるという方法だったそうです。
いくら《物識り・物教えたがり》だとて、
家事全般を娘に教えられるほど何でも出来る露伴さんは、どういう育ちだったのでしょうか。
しつけ帖の「あとみよそわか」に、このように記されていました。
「父は兄弟の多い貧困の中に育って、朝晩の掃除はいうまでもなく、米とぎ・洗濯・火焚き、何でもやらされ、いかにして効率をあげるかを工夫したといっている。格物致知 (※1) はその生涯を通じていい通したところである。身をもってやった厳しさと思いやりも持っている。おまけに父の母である。八人の子のうち二人を死なせ、あとの六人をことごとく人に知られる者に育てあげた人である。ちゃんとイズムがあって、縫針・包丁・掃除・経済お茶の子である、音楽もしっかりしている。こういうおばあちゃんが遠くからじっと見ていて、孫娘が放縦に野育ちになって行くのを許す筈が無い。そして問題の本人たる私は快活である、強情っ張りは極小さいとこからの定評、感情は波立ち安くからだは精力的と来ている。こういう構成では父がその役にまわらなくては収まりがつかないのである。」
※1 格物致知…物事の道理を研究して、知識を明らかになること。
しつけ帖には、
障子のはたきのかけ方や、水ぶき、雑巾のしぼり方、その他もろもろの家事雑事の方法が書かれています。どれも「ああ なるほど」とうなるレベルです。
何にでも道理があり、家事の所作には美しさが求められ、効率的に事が運ぶように工夫が必要、と露伴さんは説きます。
こまごまとした家事のひとつひとつに、こんな行き届いた道理があろうとは、、、
ページをめくるごとに感嘆し、考えさせられ、感動してしまいます。
文さんが、一通りのことが出来るようになった時のエピソードがまた痛快でした。
取り込み事を手伝いに行った先でのこと。
何人かの同じ年頃の娘さんたちのいる前で、そこの主人から褒められました。
娘さんたちの母親は、文さんだけが褒められたことが気に食わなかったらしく、
主人の立ったあとで、きこえるほどの当てこすりを言いました。
「台所まわりのことはできても、お嬢さんのすることがなんにもできなくてはねぇ」
文さんは、悔しくて、むかむかして、家に帰って父親に訴えました。
すると露伴さんは言いました。
「まげていわれたり、ないことをいわれたりしたのなら腹立つのもいいが、
その通りのことをいわれたのだから、別におこることはないじゃないか」
「なるほど座敷でする遊芸や茶の湯いけばなは、お前に習わせておかなかった。
いわれた通りではないか」
文さんはむかむかしてうらめしく、習わせてくれさえしたら、カラ馬鹿じゃあるまいし、なんのお茶の一服、お花のいっぱしくらい、私にだってできようものを。お父さんは冷淡だ。いい調法にして毎日台所をさせておきながら、なんという言い草だろう、と不平がでかかった。そうです。
すると。
「そういうように、本当のことをいわれたときには、素直に、仰せの通りといえばいい。恥ずかしいと思ったのなら、それもそのままお恥ずかしゅうといい、ご指摘いただきましたのをよいたよりにいたしたく、何卒ご指導を、と万事すなおに、本心教えを乞うて、何にもせよ、一つでも半分でもおぼえて取る気になれば、よかったではないか。水の流れるように、さからわず、そしてひたひたと相手の中へひろがっていけば、カッと抵抗してかぶるみじめさからだけは、少なくものがれることはできて筈だと教えてくれ、それを教えておかなかったのは、親の手落ちで、すまないことをした」
一事が万事、こんな風に言われてしまっては返す言葉も口答えも出来ないでしょう。
文さんは、
「親の手抜りだった、といわれてはこちらも馬鹿だった、とすまなく思った」
そうです。
まことにもって気の毒なことだ
最後に私が一番好きな文章を記します。
父は生まれ育ちからひ弱で、たびたび死ぬようにひきつけたそうである。ときは上野の戦争、住いは黒門町だったから、短時間のうちに立ち退かねばならない騒動になっている。そのなかで父は息も絶え絶えに、眼をひっくりかえしてしまっている。
「これを想うと知らざることとはいいながら、おお大変のさなかにおっかさんに苦慮をおかけ申し、実におれというやつは生得不幸の罪浅かざる申訳なきやつで、おっかさんの御恩は洪大だ」と、時には感じて涙すら浮かべていうのである。
あんまり度々聴かされたので鷹揚までおぼえている。そして結びには、弱即悪という論は成立つという事になる。弱即悪なら、世のなかの弱いやつはみんな死んじまえばせめて悪の蔓延は妨げるだろうというと、
「きさまごときがむやみに口を出せる境涯か」と憤慨し、「第一ことばを出して人に不快を与える、自らの業の穴を深くして苦しむ大馬鹿者」と来る。
晩年父も私も非常に穏やかに話していた或るときに「文子は口業が深いのですか」と聴いたら、「そうだ、まことにもって気の毒だ」といった。そのあとで「おまえのみに限らず女は大抵そうだ」とわずかに慰めらしくいってくれた。
気の毒とはおかしな返辞だとおもったが、日を経るにつれて、これは針のごとくわが心にささって効いている。気の毒である。
「気の毒」
それは、とても気に入っている言葉です。
すまなかったでも、申訳けないでもなく、「気の毒である」という言葉を、
私も何度か師匠 ( 故 ) から言われました。
師匠とは、半人前の私に仕事を一からたたきこんでくれた女社長です。
仕事はともかく、料理も上手で、読書家で、着物のこと、アクセントのこと、
何を聞いても知らないことはないような才気あふれる女性でした。
家事全般すべて出来る上、インテリで、私にとってまさに幸田露伴のような人でした。
機嫌の悪い時はおっかなかったところも露伴さんに似ていたかも知れません。
その師匠もよく「気の毒」とおっしゃったっけ。
師匠に「気の毒」と言われた落ち度や反省点は、今でも私の心にもささって効いています。