世田谷城跡にある案内板がとてもわかりやすいので残しておくことにした。
吉良氏と世田谷城
世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
貞治 5年 ( 1366年 ) 吉良治家 によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和 2年 ( 1376年 ) に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
応永 33年 ( 1426年 ) には「世田谷吉良殿 」などと称され、足利将軍のご一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
その後、吉良
頼康 の代には、小田原北条氏との縁戚関係をもつようになりますが、天正18年 ( 1590年 ) 、豊臣秀吉の小田原城攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実 ( 現千葉市 ) に逃れ、世田谷城は廃城になりました。その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小菴、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。
公園内の見取り図には、ベンチの場所まで書いてある( ´艸`)
毎度おなじみ江戸名所図会
豪徳寺の下方向に見える《ロ》の字は昨日お話した団地。
上空から見ても広い w
地図に書かれた鳥山川緑道は、鳥山川の暗渠の上が緑道になっている。
世田谷城址公園の突端を囲むように蛇行している。
城郭構造
世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
城郭の構造としては中央に廓 (A) は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。
世田谷城址公園には、土塁の堀の一部が残されています。
世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現段階では、この廓 ( A ) を中心として複雑に展開する八か所以上の廓や土塁・堀で後世され、廓 ( A ) ~ ( G ) 周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。
周辺史蹟案内
国史跡 彦根藩主 井伊家墓所 ( 豪徳寺二丁目 豪徳寺内 )
豪徳寺の前身は弘徳院と称し、万治2年 ( 1658年 ) に没した彦根藩主 井伊直孝の菩提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
その一角にあり井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2第藩主 直孝をはじめとして、13第藩主 直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。
区史蹟 吉良氏墓所 ( 桜一丁目 勝光院内 )
勝光院は、天正元年 ( 1573年 ) 、吉良氏朝が父頼康の菩提のため、吉良治家が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされ、以後代々の菩提寺となっています。
墓所には、明暦3年 ( 1657年 ) に没した吉良義祇以降、代々の墓が置かれています。
井伊家の墓が国史蹟で、吉良氏の墓が区史蹟というのも複雑・・・
吉良氏の菩提がこの近くにあるというので、行ってみようと思う。 ( つづく )
本日の夜ごはん
じゃん。これが例の青森産の長もやし
さっと炒めて塩コショウしただけだが、ものすごく美味しい!
玄サバを焼いて、いただきます。
玄サバは通販で購入したものだが、まだ2つある。
玄アジも美味しかったし、リピート必至の商品です。
本日の創作
ブロッコリーの芯とエリンギとソーセージを炒めて、
かぼちゃを煮ておいたものをソース代わりに和えてみました。
ほんの少し追加で塩をしただけですが、かぼちゃの甘さで面白い一品になりました。
大好きな厚揚げを焼いて
全体の写真
大鰐温泉のもやし ( リピートしたいのでメモメモ )
〆のデザートは、かもや幾世の芋ようかん
しっとり感がすばらしく、舟和より好きかも。