今はなき「阿佐ヶ谷住宅」を振り返ってみると、沢山のご縁を感じました。
《ご縁》といっても直接的なものではないから、
《私の好きで溢れている場所》といった方がいいかも知れません。
つまり、阿佐ヶ谷住宅は《好き》が連鎖していた場所だったんです。
初めて阿佐ヶ谷住宅に迷い込んだのは、15年前の冬でした。
練馬の親友の家に行く途中、迷い込んだのですが、
懐かしい昭和の雰囲気のする建物と町並みにすっかり魅了されました。
それから何度か足を運んだり、調べたりしていたら、
好きな人と接点がある場所でした。
津端修一さんと前川國男さん
阿佐ヶ谷住宅の設計を統括したのは津端修一さんで、
敷地の特徴的な三角屋根のテラスハウスを設計したのは、前川國男設計事務所の大高正人さんでした。
津端さんを初めて知ったのは建築家-津端修一ではなく、
奥さまとキッチンガーデンをされている素敵なおじいちゃま「つばたさん」でした。
たまたま観たテレビ番組をキッカケにご夫婦のファンになり『人生フルーツ』という映画も観ました。
そのつばたさんが、阿佐ヶ谷住宅の素晴らしい町並みを作られた方だと知って、感動にうち震えました。
大げさと言われても仕方ないけど、ほんとうなんだから。
津端さんは、東京大学第一工学部建築学科を卒業後、前川國男の事務所に入りたかったが、
同級生の入所が内定していた為、前川さんの推薦でアントニン・レーモンドの事務所に入所しました。
アントニン・レーモンドはフランク・ロイド・ライトの元で学び、師匠と共に帝国ホテル建設の際に来日した人で、その後独立して数々の名建築を残しました。
前川國男さんが津端さんをレーモンドさんに紹介したのは、前川さんがレーモンドの弟子だったから。
好きな建築家がどんどん繋がっていく。
こっからは私の個人的な話です
初めて一人住まいをしたのが成田東で、阿佐ヶ谷住宅のごくごく近所だったのです。
成田東にいたのは一ヶ月足らずで、当時は阿佐ヶ谷住宅も知らず仕舞いで 引っ越しました。
2016年。
惜しまれつつも阿佐ヶ谷住宅が解体され、跡地がマンションになるのだと聞いた時、
「ああ これで昭和も終わったか」と、思いました。
2019年。
草津からの帰り、MOURI と二人 車で阿佐ヶ谷住宅の跡地に寄りました。
阿佐ヶ谷住宅があった当時の、素敵なカーブは無くなっていましたが、
跡地の低層マンションが、かなりゆったり建てられていたのが救いでした。
ふと見ると、売れ残っている部屋がいくつかあり、
不動産屋さんがのぼりを立てて物件案内をしています。
「物件 見てみたいな」
購入する予定はないけれど ( ひやかしの ) 内覧希望をしました。
案内されたのはフォレストB地区の2部屋。
2つ目に見た物件は、善光寺川が見える眺めの良い部屋でした。
かなり心が動きました
が、駐車場がないのと不動産税が高いのと、駅から遠いのでやめました。
当時は、二人とも忙しく働いていたので、通勤時間が倍になることもネックでした。
セミリタイアした今ならば、あの環境は捨てがたいと心が動いていたかも知れません。
早起きして善福寺川の緑道を散歩できるなんて、気持ちの良いことでしょうから。
でも。
今回、内覧した跡地マンションと、旧阿佐ヶ谷住宅の前川テラスと、
どちらかに住めるとしたら、迷わず「前川テラス!」と答えるかな。
狭いし、二階は滅茶苦茶暑かったというけれど、あの雰囲気は何物にも代えがたい魅力がある。
航空写真で見る変遷
昭和20年頃 このあたりは湿地帯で、昔は畑でした。
昭和36年頃 阿佐ヶ谷住宅完成3年後
昭和63年~平成2年頃 赤い屋根が前川テラス、白い屋根が公団が建設したもの。
平成19年 マンションになってしまいました。
ゆったりと建てられていますが、津端さんが作ったカーブはない。
ちにみに、津端さんは、団地然とした街づくりを嫌って、
カーブをほどこした道に、住宅を点在させたそうです。
イメージは、津端さんが住んでいた原宿の近くにあるワシントンハイツの町並み。
本日の夜ごはん
本日は、簡単めし
チーズちくわを切って、出汁巻きたまご ( イオン ) を切って、
市販のポテサラを盛って、ごまかしました。
トマトとおくらのレモンドレッシング和え
菊の酢の物
肉じゃが
今日は豚肉でした。
ちゃんちゃん♬