武田麟太郎への興味から書棚をあさっていたら、この本を見つけました。
筑摩書房 日本文学全集 44
早稲田の古書店に一冊ぽつんとあったのを購入したもの。
買ってすぐ島木さんだけ読み、そのまま書棚にしまい込んでいた。
なんだ、島木さんと武田さんがひとつになっていたのか
気づかなんだ。
今ごろになってこの本に呼ばれたようです。
選者がこの三人を組み合わせたのには理由があるようです。
織田作之助と武田麟太郎は大阪出身。
作家活動は、織田は大阪、武田は東京と別れたものの、
9歳年下の織田は武田のことを兄貴分として慕っていたそうです。
そして武田麟太郎と島木健作。
二人にも色々と共通点があることがわかりました。
武田麟太郎と島木健作の共通点
二人の ( 私が感ずる ) 共通点をまとめてみました。
- 誕生も 死去も 一年違い
武田麟太郎 1904年(明治37年)5月9日 - 1946年(昭和21年)3月31日)
島木 健作 1903年(明治36年)9月7日 - 1945年(昭和20年)8月17日)
- プロレタリア作家で ( 武田は弾圧、島木は逮捕 ) 後に転向、作家となる
島木健作 1925年(大正14年)東北帝国大学法学部 入学後間もなく東北学連に加盟、中心人物として仙台初の労働組合の結成にも携わる。日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として農民運動に参加。1927年(昭和2年)に肺結核に苦しみながら、最初の普通選挙による県会国会選挙の活動に従事。 (この頃日本共産党に入党したと推定される)。1928年(昭和3年)の三・一五事件で検挙され、起訴後の翌1929年(昭和4年)に転向声明を行う。
武田麟太郎 1929年(昭和4年)1月に『創作月刊』に「凶器」を発表し一部で注目され、同年6月に『文藝春秋』に「暴力」を発表。この作品は発禁となり部分的に削除され、プロレタリア作家として文壇に地位を築く。1936年(昭和11年)『人民文庫』を創刊し主宰したが発禁となり、プロレタリア文学への弾圧を経て、転向。
- 作風の推移に関する類似点
庶民に焦点をあてたものが多く、彼らを優しい視点で描いている。
政治的思想をぬきにした作風に変わった。
転向後の二人はスイッチが切り替わったように、政治的な主張を一切盛り込むことなく作品を展開しています。もちろん政治的要素が問題で弾圧・検挙をされたのですから、転向後、作風を変えざる得なかったのは当然。
しかし同じ作家でも、転向後も政治思想を変えずに作家活動を続けた中野重治と、両氏の作風は違います。
二人を好きなワケ
私が武田麟太郎、島木健作に魅かれる理由は、政治思想をぬきにした芸術性を追求していったところにあります。
武田さんはまだ読み始めたばかりですが、通俗小説家となりながらも芸術性をつきつめていかれているように感じます。
※ この件に関して、志賀直哉が「友への手紙」という興味深い本があります。
後日はその本のご紹介をしたいと思います。
また私は、自身の本棚にひっそりと置きっぱなしにした本から呼ばれました。
「おい、そろそろ、読んでみないかね」と言われた感じ。
本日の朝ごはん
そばかな? うどんかな?
鶏肉でてきた
小松菜の根、甘くておいしい!
お餅 にゅーーーっ お雑煮でした
夜ごはん
またまた鍋です
出来上がるまで、厚揚げ焼いたのでビールを飲む
鍋の具材を切ったら、あとは鍋奉行にお任せ
ぐつぐつぐつ
できた、いただきます!
本日の鍋は、寄せ鍋でした
ごぼう、にんじん、白菜、長ネギ、春菊、椎茸
ワタリガニ、豚肉、海老、豆腐 でした。