garadanikki

日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

芥川龍之介の生育地-小泉町をさがせ

 

緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだ不要不急のお出かけははばかられ、

個人的には、とんとお出かけが遠のいてしまいました。

運動不足にもなっています。

って、ほほほ。

なんでもコロナのせいにしたらいけません!

が、しかーし。

ぶらMarcoができにくくなっているのは事実です。

 

 

おこもりしていると、読書かゲームか、料理作りか、ブログを書いているか、、、そんなことばかり。

そんな中 ブログ整理していたら、昔の記事に追記したいことが出てきてしまいました。

 

garadanikki.hatenablog.com

 

「芥川さんちを探せ」

芥川龍之介が生後七か月で引き取られた両国の家はどこにあったのかを、解明したいのです。

ついでに、居住地「小泉町」の変遷も調べます。

要するに、、、、地図遊び、趣味です趣味  (;'∀')

御用とお急ぎでない方は、ちょっとお付き合いください <(_ _)>

 

キッカケになったのが、両国にあった二つの看板です。

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芥川龍之介生育の地には、こんなことが書いてあります。

芥川龍之介生育の地 抜粋

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 芥川龍之介は、明治25年 (1892) 3月1日、東京市京橋区入船八丁目一番地 ( 中央区明石町 ) に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後7ヵ月で、龍之介の実母、ふくが発狂してしまった為、当時本所区小泉町15番地 ( 両国三丁目 ) に住んでいた ふく の長兄、芥川道章に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。

 明治43年 (1910) 19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校 ( 両国小学校 ) に入学しました。

 

小泉町って、どの辺なのか?

まず、小泉町の変遷をたどってみます。

この看板があったのが墨田区両国2-16-1で、ここは小泉町→東両国→両国と地名が変わってきました。

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小泉町跡

昭和6年に横綱町、元町、松坂町と合併して「東両国」と名を変えるまでこの辺りは、小泉町と呼ばれていました。

 嘉永5年 ( 1852 ) の本所絵図には当時、両国橋際にあった藤堂和泉守下屋敷の東隣、横綱町の南隣に「小泉丁」とあります。

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 寛文5 ( 1665 ) 、御材木手代の大縄地 ( 大縄地=組単位で下級武士に与えられた屋敷地 ) となりましたが、元禄9 ( 1696 ) に町屋の許しが出て、町名は小泉という者が草創者のため、小泉町と呼ばれるようになりました。

 

地名は色々な理由で代わります。

だいたいはお上の事情、維新後も政府の方針で、素敵な町名がどんどん消えました。

 

件の看板があったのは、ここ ⤵ ①というマークの場所です。

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上記が現在の地図ですが、320年前地図 (下図 ) には、小泉町はありません。

1693年 (元禄6年) の地図で《町屋の許しが出て小泉町が誕生する3年前》のものです。 

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ここは「御材木蔵」でした。

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3年後、1796年 (元禄9年) に町屋の許しが出て、小泉町が誕生しました。

※ 当時の地図が見つからなかったので、63年後の地図を見てください。⤵

1859年 (安政6年) の地図には「小泉丁」とありますが、まだこんな小さな一角でした。

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10年後。

1869年 (明治2年) の地図では、「小イヅミ丁」と書かれた部分が少し広がっています。

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1879年 (明治12) の地図では、さらに広がっています。

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三浦備前、藤堂和泉などの下屋敷の記載はなく、

材木クラ ( 竹蔵 ) は、陸軍の倉庫に代わりました。

 

1880年 (明治13) の地図の方がわかりやすいかな。

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1881年 (明治14) の地図では、「小泉丁」は、左側にも広がっている。

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1884年 (明治17) の地図には、「小泉町」の町並みが描かれています。

いまひとつ鮮明でないのが残念。

あっ、この地図には「藤堂邸」がありますね、消滅していたワケではなかった。

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1887年 (明治20) の地図も簡便ですが、「藤堂」の文字がある。

また陸軍倉庫の敷地周りには、水路が築かれているみたいです。

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1891年 (明治24) の地図。

町の区分がわかりやすい地図です。

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1892年 (明治25 ) の地図。

ここで やっと芥川君の誕生です。

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1907年 (明治40) の地図。

細分化されていて「本所小泉町」の地番まで辿れます。

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芥川龍之介が母方の叔父のところに引き取られたのは生後7か月、1892年 (明治25) でした。

1910年 (明治43)  19歳で新宿に移転するまでの18年間、ここに住んでいた。

因みに芥川家の番地は「本所区小泉町15番地」 の箇所だと思われます。

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ああたのしかった。

じゃんじゃーん。

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体調管理と食事の話

話は変わって、食事についてです。

脂質を制限するなど、食生活を見直していかなければいけなくなりました。

 

隣の人が困った困ったと言っています。

「作る量は変えないから、自分が少なくする分、残りが全部オレにまわってくる」

 

 

昨夜のナポリタンも、私はちょっとで、

隣の人には、たらふく食べさせてしまいました。

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本日の夜ごはん

茹でた野菜、蒸した料理が並びます。

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さつまいもは、銘柄をみないで買ったので、切ったら紫でした。

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なんだかなぁ。しっぱい。

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いつもはレタスを炒めてから、春雨と茹で鶏肉と合わせていたんですが、

今回は、蒸してみました。鶏肉の代りに、燻製になっている鴨肉を使いました。

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味付けはなし。

鴨肉の塩気、足りなければちょっと柑橘ポン酢。

 

食の改善といっても、あまり無理をしても続かないのでゆるりとやっていくことにします。