森鴎外の「高瀬舟」について考えています。
「高瀬舟」は、弟殺しで遠島の刑を受けた罪人・喜助と、彼を護送する同心・羽田庄兵衛との舟の上の話です。
ざっくりした筋はこちら
これから遠島に送られるという喜助の様子が常の罪人らしからぬ明るいのを見て不思議に思った庄兵衛が、興味を持って話しかけます。
お前はどうしてそう嬉しそうにしているのかと。
すると喜助はこう言います。
今まで自分は散々に苦しいなか生きてきたが、それを振り返れば島送りの生活は苦にもならないもののような気がする、しかも自分の懐にはお上のお慈悲で二百文というお金がある、生まれてこの方こんなお金を持ったことがないのだから。
罪状は弟殺しとのみ聞いていたけれど、さらに興味を持って詳細を尋ねると、
喜助は顛末を話し出した。
子供の頃にふた親が病死した喜助と弟は、近所の家の小間使いや施しでようよう成長し、職を得た後も兄弟二人力を合わせて生きてきた。
しかし弟が病を患い、貧しい中喜助ひとりで働いて弟を世話していた。
ある日仕事から帰ると、掘っ立て小屋の中に、喉に剃刀が食い込んで血だらけの弟がいた。
弟は病身を苦に、これ以上兄に苦労をかけるに忍びなく自らの喉笛を切ったのだった。
しかし死にきれず、弟は兄に喉の剃刀を抜いて死なせてくれて頼む。
驚いた喜助は医者を呼ぼうとするが、弟はこのまま死なせてくれと必死に訴える。
迷う喜助をにらむ弟の目には切望のあまりに憎々し気な表情さえ浮かび、
それに押された喜助は剃刀を抜いてやることにした、
弟の顔は途端に晴れやかそうになり絶命する。
その刹那、近所の老婆が小屋に入ってきてそれを目撃した。
喜助の話を聞いて、庄兵衛は考えた。
確かに殺しに違いはないが、それは重罪に値するものなのだろうか。
お奉行という偉い方は、これをどのように判断なされたのか、
その真意を聞いてみたい気もすると庄兵衛は思いながら、腑に落ちない心が消えないもも役目を終えたのだった。
昨日 お話しした、少年少女日本文学全集の「森鴎外」の本に、
中学三年生の佐藤くんの感想文が掲載されてしました。
彼は《安楽死》についても言及しています。
とても立派な感想文でした。その安楽死の部分を抜き出してみます。
まず第一に、生きることの苦しみを死によって解決しようとし、いままた、その死の苦しみにあえいでいる弟に対する喜助の取った手段である。この世にたよりたよられるものはほかにない、たった二人の兄弟、深い深い愛につながれていた兄と弟である。その弟を兄がなにゆえ手を下して殺さねばならなかったか。これまでの道徳、あるいは法の定めは死にひんしている人間の苦しみを断つ、すなわちその人を死に導くことを非としてきた。その苦しみを見ていることは情においては忍びないばあいも、とにかく人を殺すことは非であるから、どんなに死の苦しみが長びいてもしかたがないという態度であった。ところが、医学社会においては、死にひんして苦しんでいる人間で、どうせ助からぬ命ならば、できるだけ楽に死なせる方法を取ってやるのがよいという、「安楽死」の問題がある。この二つの矛盾をいかにして解くべきかを、鴎外はこの小説の中で、静かな筆致で、しかも烈しく論じているように思われる。
昭和38~9年頃の中学三年生が安楽死について語るとは驚嘆に値するものでした。
今でこそ、「嘱託殺人」「安楽死」と言う言葉があり、医学の世界だけでなく一般理念として認識されていますが、昭和30年代にこの発想にいきつくのは凄いことです。
理路整然と、こんな素晴らしい感想文を読まれた後に、私ごときの文章は恥ずかしいけれど、
私は、この本を読んで全く違う受け取り方をしたので書きたいと思います。
喜助の自白は真実だったのだろうか
まず最初に私が感じたのは《喜助は嘘をついているのではないか》ということです。
佐藤くんだけでなく、現在の読者も「高瀬舟」は、安楽死の問題がテーマだと書いている人が多い。
軍医だった森鴎外だからこその問題提起ではないかと。
しかし、うがった見方をすれば、
鴎外はこの作品で、読者に罠をしかけたのではないでしょうか。
ひとつは、喜助を気の毒に思うだろうと、読者を誘導し、安楽死を考えさせることです。
しかしもうひとつ、喜助が嘘をついていると、読者が疑って読むことも出来るように仕組んだのではないでしょうか。
そう考えた理由は、喜助と弟との小屋でのシーンにあります。
弟が死ぬ経緯の喜作の話に、医学上の矛盾を感じてしまったからです。
人は、喉に剃刀がつきささったまま「死なせて欲しい」とか「剃刀を引き抜いて欲しい」とか、そんなことが 声に出来るのだろうか。
無理なのではないかしら。
軍医である森鴎外ならば、なおさら不可能だとわかるはず。
それを承知で書いているのだとしたら「見抜け見抜け」「気がつけ気がつけ」と
鴎外が言っているように感じてしまいました。
ではなぜ森鴎外は、このように書いたのか。
もちろん、安楽死が大罪なのかと庄兵衛に考えることを描きたかったのだと思います。
が、もうひとつ。
喜助の自白が真実か、それとも真っ赤な嘘かをワザとあいまいに書くことで、
読者にも 庄兵衛同様《何か腑に落ちないもの》を感じさせたかったのではないでしょうか。
でなければ、医者なのですから、もっと医学的に間違いのない場面を作り上げられように思います。
喜助が嘘をついていたら
「喜助の話が嘘だったら」
そう考えて読んでも、道理が通り結構面白いんです。
・喜助は弟を足手まといに思い殺害した。
・殺した後、喜助は出奔しようとしたが、現場を見られた。
・喜助は取り調べで、庄兵衛に話した筋書きを話した。
・当時の殺人は全て死刑になるのに遠島の罪ですんだのは、奉行が喜助を信じたから。
・喜助は自分の嘘が通ったのでホッとして笑っていた。
どうでしょう、こう考えることも出来ますの。
こうして読むと、むしろ作品の末尾が微妙な文章で終わっているのもうなづけます。
私って、つむじ曲がりかしら (;'∀')
庄兵衛の心の中には、いろいろに考えてみた末に、自分よりも上のものの判断にまかす外ないという念、オオトリタテに従う外ないという念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは言っても、庄兵衛はまだどこやらふに落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。
次第にふけてゆくおぼろ夜に、沈黙の人ふたりを乗せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。
実は、私と同じように、いえもっと理路整然とこの説で論文をたてている方がいらっしゃったので、貼り付けておきます。
本日の昼ごはん
本日の夜ごはん
寒くなったので、チゲ鍋にしました。
豚バラ肉、豆腐、にら、えのき、しめじ、白菜など。
おいしいわー、体あたたまるわー