Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

「ティファニーで朝食を」vol.3 猫の扱い方問題

 

「ティファニーで朝食を」のホリーが飼っている猫には名前がない。

ホリーは拾ってきた猫を、一時預かりだと思っていて、

「ちゃんとした飼い主が見つかったら名前を付けてもらいなさい」と言っている。

 

わかったようなわからないような・・・・論理

この論理、動物好きの私には理解できない発想。

 

 

ホリーは本当は猫が好きなわけではないのだろうと思った。

動物を「可愛い」と思って飼うならば、呼びかけは必然。

そんな時、ホリーはどうしているんだろうか。

「猫」とでも呼ぶのか?

呼びかけなんかせず、気のむいた時だけ撫でてやるようなことなのではないか。

 

 

映画の猫は、懐っこい茶トラ君。

尻尾をあげ、ホリーにくっついて回る。

彼女もセリフを言いながら、ミルクや缶詰を与えているが、

この猫ちゃん、よほどお腹を空かせておかれたのではないか。

 

私は映画の猫の扱いに、疑問や抵抗を感じてしまった。

当時はコンプライアンスも、動物虐待の抗議もないだろうけれど、

今だったら絶対にうったえられると思う。

 

一番ドキリとしたのはこのシーン

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兄の死を知り、半狂乱になったホリーが部屋中のものを壊すシーンだ。

ドレッサーの、猫が乗っているクロスを引っぱり、化粧瓶をなぎ倒す。

勢い投げ出されるようになってしまった猫は、窓枠に飛んでしがみつく。

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まるで小道具扱いだ。

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ブレイク・エドワード監督は、ピンクパンサーなどで評価の高い人らしいが、

ユニオシ同様、猫の扱いもデリカシーを欠いたものに感じた。

 

茶トラ君の災難はこれだけでは済まない。

ラストシーンでは雨の中 おっ放され、

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ぐしょぬれにされてしまう。

「水が大嫌いな猫を、こんなに濡らして可哀そう」と、見ていられなかった。

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それにしても、なんと大人しい猫なんだろう。

 

捨てられて、木の箱の中で雨宿りをしていたかと思ったら、

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また引っぱり出されて、ギューギュー抱きしめられる。

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もうやめてくれーーー

 

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私はこの主人公の顔が「可哀そうな猫」と言っているようにしか見えなくなった (-_-;)

 

茶トラ君、嫌なものは嫌と言っていいんよ。

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二人にギューギューされて、ああ、気の毒なことだ。

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猫に名前を付けないことの意味

この作品で猫は、ホリーを象徴しているようである。

ホリーも、猫に自分自身と投影しているから、名前をつけず、自由にしてやりたいと願っているようだ。

自由気ままに、人の所有されないことが、私にとっても猫にとっても幸せことだと。

 

彼女はまだ猫を抱きかかえていた。

「かわいそうな猫ちゃん」と彼女は猫の頭を掻きながら言った。

「かわいそうに名前だってないんだから。名前がないのってけっこう不便なのよね。

でも私にはこの子に名前をつける権利はない

ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで、名前をもらうのは待ってもらうことになる

 

この子とはある日、川べりで巡り合ったの。

私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。

『ティファニーで朝食を』新潮社文庫 村上春樹版p.64より

私にはこの論理さっぱりわからないが、彼女なりに愛しているのはわかる。

 

ホリーは、思い返して泣きながら猫を探す。

" Cat"  "Cat"

ほれみー、名前をつけなかったからそう呼ぶしかないじゃないか。

 

原作のホリーは、捨て方も優しい。

ホリーは車から降りた。彼女は猫を抱いてした。猫をあやすように揺すり、その頭を掻きながら語りかけた。

「ねえ、どう思う?このあたりって、お前みたいなタフ・ガイにはお似合いの場所じゃないこと。ゴミ缶やら、ネズミの大群やら。ごろつき猫たちともお仲間になれるわ。さあ、お行き」、彼女はそう言って、猫を下に降ろした。

 

猫がどこにも行かず、そのまがまがしい顔を上げて、海賊を思わせる黄色を帯びた目で、問いかけるような視線を彼女に向けたとき、ホリーは足を強く踏み鳴らして言った。

「さあ、行きなさいって言ったのよ!」。猫は彼女の足に頭をすりつけた。「どっかに行っちまえって言ったのよ!」と彼女は声を荒げ、飛び込むように車に戻ってドアをばたんと閉めた。

『ティファニーで朝食を』新潮社文庫 村上春樹版p.116より

そのあと彼女は、すぐに自分のやったことを悔い、猫を探し始める。

「ああ、神様。私たちはお互いのものだったのよ。猫は私のものだった」

 

 

 

映画のホリーは、主人公に言われてやっと、自分のしたことに気づく。

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「ホリー、人のものにはならないと頑固に通すことに何の意味がある?

 人のものになりあう事だけが幸福への道だ。

 自分だけは自由の気でいても、生きるのが恐ろしいのだ。

 自分で作った檻の中でいるのだ。

 その檻はテキサスでも南米でもついて回る。

 自分からは逃げられないからだ。」

 

 

 

 

原作の猫がどうなったかは、ここには書かないが、

私は、映画の茶トラ君よりも、やっぱり原作の猫の方が幸せなのだと感じたし、作品としても映画より原作が秀でいいるように思った。

 

 

 

 

本日の昼ごはん

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鮭、キムチ、納豆、柴漬けなんかが沢山ある。

ご飯をおかわりしなけりゃならないラインナップ。

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本日の夜ごはん

つまみ三品盛り、さばの水煮、うに豆腐、棒棒鶏

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昼食べ過ぎたから、お腹が空いてないっていうので、二品だけ。

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昨日の鶏むね肉の炒め煮の残りを改良。

トマトを足して温め直したところに、大根おろしをかけた。

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