芹沢家の歴史
芹沢家の家祖 ( 道春禅定門/俗名不肖 1697年 元禄十年没 ) は、寛文年間 ( 1661年~1672年 ) に
羽根木の地に入植し、煙草の栽培で財を成したと伝えられる。屋号は煙草屋。
芹沢家代々の当主は、新兵衛、新右衛門などと名乗り、世田谷村の名主・年寄役を勤めた。
八代目 芹沢新平
1827 ( 文政10年 ) ~1895 ( 明治28年 ) 定右衛門
世田谷村字羽根木の名主・年寄。田畑は全て小作人に任せ、自らは質屋・煙草小売業・小物小売業・醤油製造販売業を営んだ。維新後は、家業の傍ら、世田谷村村会議長、地租改正掛などの職を勤めた。
この肖像画の像主・芹沢家八代当主・新兵衛 ( のち新平に改む ) は、多摩郡堀之内村 ( 現杉並区堀ノ内 ) から同家へ養子に入った人で、元の名を定右衛門といった。
生涯妻を娶らず独身を通した。
維新後、芹沢家では、醤油の醸造工場を大々的に経営することになるが、醤油醸造に着手したのは、この八代目新平の時であった。
新平は1881年 ( 明治14年 ) 、世田谷村会議員選挙に当選すると同時に議長に選出されている。その他、地租改正掛、桜小学校学務委員、経堂在家村小学校委員、代沢小学校学務委員など勤め、地域の発展に寄与した。
九代目 芹沢新平
1846 ( 弘化3年 ) ~1909 ( 明治42年 ) 銀蔵
八代目 新平の養嗣子。入間郡所沢町 ( 現埼玉県所沢市 ) より同家の養子に入る。
明治28年、家督を継ぐ。稼業の傍ら、世田谷村会議員、同助役、世田谷農会長などの職を歴任した。
明治28年、家督を継ぎ「新平」を襲名した九代目は、養父八代目 新平同様、家業の傍ら、世田谷村の村会議員を勤めた。
1898年 ( 明治31年 ) には、同村助役に選ばれたが、その任に堪える器ではないと辞退を申し出た。
しかし、村人からの人望が厚かった新平のこの申し出は結局受理されず、そのまま助役に就任し、更に同年7月には、村長に選任されている。
芹沢つね
1850 ( 嘉永3年 ) ~1912 ( 明治45年 )
九代目 新平の妻。幡ヶ谷笹塚の医師・中村家より嫁す。
上記三枚の肖像画は、九代目新平の次男で十代目を襲名した新平 ( 幼名:稲吉 ) が、画学生の山口謙哉なる人物に依頼して1910年 ( 明治43年 ) に描かせたもの。
※ 八代目の肖像画は、八代目が69歳で亡くなった年の写真を基に描いたものであるという。
十代目 芹沢新平
1876 ( 明治9年 ) ~1949 ( 昭和24 ) 稲吉
検査場と塩置場 ( 右が本人 )
世田谷区民会館に設置されている銅像
10代目芹沢新平は、時代の趨勢をよく理解していた。
家業の醤油醸造を営む傍ら、くぬぎ林を切り開き、道を造り区画する。
近隣の地主とも話し合い、お金も出し、工事の指示や測量に飛び回った。
世田谷区に15,00坪の土地を寄付
10代目の功績の、その最たるものが莫大な寄付だろう。
世田谷区が誕生し、昭和11年に千歳・砧村が世田谷区に編入され人口増に伴い、旧世田ヶ谷村役場では手狭になった。世田谷区の庁舎用地が決まらず区会でももめ続けた。
そこで芹沢新平が現在の世田谷区役所が建つ土地を寄付することにより決着した。
戦後の内改革・財産税等で、芹沢家の土地も大幅に減っていく。
が、この時代はまだ大地主であり、家族制度も厳然としてあった。
三百年続いた父祖伝来の地を、自分の代に自分の手で減らすことに抵抗がなかったはずはない。
しかし英断をくだし世田谷区に15,00坪の土地を寄付したのは昭和12年、新平が還暦の年だった。
守山公園を作る
10代新平の社会貢献は留まることがない。
守山にある芹沢家が所有する三万坪に及ぶ松の木となら、くぬぎ等の落葉雑木林の地の一部を自然公園として、滑り台、ブランコ等種々の遊戯設備を施し、また小学生が野球を楽しむ位の広場も作った。
新平はそこを守山公園と名付け、自分の邸から公園まで新しく道を作り、自然を壊さないよう番人を置いて管理させた。
※ 芹澤新平 ( 稲吉 ) を10代目とする資料のほかに、13代目とする資料もある。
以上のように、10代目新平の資料は豊富である。
「人事興信録」記載されているのも、10代目 新平のみ。
3版 1911年 ( 明治44年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779813 から、
11版 1937年 ( 昭和12年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1072916までの連続9回、
2版おいて14版 1943年 ( 昭和18年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704391/931
合計10版に掲載されている。
さて。
10代目までに比べ、11代目以降の当主たちの情報取得が困難なのは、
昔に比べて個人情報が保護されるようになったことが理由と思われる。
11代目 宏吉さんについては一枚の写真のみとなる。
11代目 芹沢新平 宏吉
家族で、右から母 ( ちさ ) 、父 ( 10代目稲吉新平) 、宏吉、その妻
現当主 芹澤良明さん
現・当主である芹澤良明さんについては、
ホイチョイ・プロダクションのメンバーであることや、
せたがやふるさと区民まつりの実行委員長をやっていらっしゃったことが判明。
芹澤良明さん 1954年 ( 昭和29年 )
克美さん 1955年 ( 昭和30年 )
ホイチョイ・プロダクションズkanshinblog.wordpress.com
そしてこの調べもののキッカケだった羽根木のパン屋さん通りの、
あの街並みを作られたのが、芹澤良明さんだったことがわかった。
上記の記事によると、
件の集合住宅「
「亀甲新」の名前は、芹沢家が大正時代までこの地で営んできた醤油工場に由来する。
新しく作った集合住宅の庭には、もともとあった醤油の釜をはじめ、瓦や門扉なども再生利用されている。
企画を手掛けた芹澤義明 ( 賃貸住宅研究室の代表 ) さんが、樹木を活かした住環境にしたのは、代々の芹沢新平さんたちの理念に基づくものなのだろうし、それを継承した結果があの素晴らしい街並みになったのだと私は思う。
その他の参考資料や人事興信録の全写しなど、
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本日の昼ごはん
炒飯というと、作る気満々になるMOURI
マイお玉の出番ですわ ( ´艸`)
本日の夜ごはん
つまみ三品盛り、なんちゃってザワークラウト、里芋の柚子胡椒煮、ゴーヤのツナ和え
今夜のメニューは、三品盛りを始め全部、本日手作りしたものたち
さつまいものレモン煮
こんにゃくのピリ辛炒め
にんじんシリシリ
とじ込みは、人事興信録の写し
人事興信録 3版 1911年 ( 明治44年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779813
芹澤新平 資産家 東京府平民
母 つね 嘉永03年03月生、東京府人 中村三郎右衛門長女
妻 こと 明治15年07月生、埼玉、平、深井倉次郎長女
弟 寅尾 明治11年12月生、
弟妻 いん 明治19年09月生、埼玉、平、深井倉次郎二女
君は東京府平民先代新平の二男にして明治9年8月8日を以て生る 同42年7月家督を相続し稲吉を今の何改む 資産家にして所得税850余円を納む
家族は前記の外 長女敏子 ( 明治35年12月生 ) あり
東京、荏原、世田ヶ谷村世田ヶ谷1645
人事興信録 4版 1914年 ( 大正 4年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995
芹澤新平 醤油醸造業 東京府平民
妻 ちさ 明治23年04月生、埼玉、平、深井琴妹
男 久三 大正03年03月生
弟 寅尾 明治11年12月生、
弟妻 いん 明治19年09月生、埼玉、平、深井倉次郎二女
君は東京府平民先代新平の二男にして明治9年8月8日を以て生る
同42年7月家督を相続し稲吉を今の何改む 醤油醸造業を営み 方今直接国税1400余円を納む
家族は前記の外 長女敏子 ( 明治35年12月生 ) あり
東京、荏原、世田ヶ谷村世田ヶ谷1645
人事興信録 5版 1918年 ( 大正 7年 ) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704046
芹澤新平 醤油醸造業 東京府平民
妻 ちさ 明治23年04月生、埼玉、平、深井琴妹
男 宏吉 大正04年09月生
女 敏子 明治35年12月生
弟 寅尾 明治11年12月生
弟妻 いん 明治19年09月生、埼玉、平、深井倉次郎二女
君は東京府平民先代 芹澤新平の二男にして明治9年8月8日を以て生る
同42年7月家督を相続し稲吉を今の何改む 醤油醸造業を営み 方今直接国税1400余円を納む
家族は前記の外 三女貞子 ( 大正05年07月生 ) あり
東京、荏原、世田ヶ谷村世田ヶ谷1645 電話16