豪徳寺を満喫し、井伊家のお墓も拝見した後、近所の世田谷八幡宮に移動。
世田谷八幡宮
世田谷八幡宮は、寛治5年 ( 1091年 ) 源義家が奥州からの帰途、この世田谷の地に寄り、戦勝を感謝し創建されたと伝えられています。
天文15年 ( 1546年 ) 8月に、世田谷城主・吉良頼貞 ( のちの頼康と改名 ) が社殿を修築造営した時、備前雲次の太刀を一振寄進し、吉良氏領内第一の神社として尊崇されました。
天正18年 ( 1590年 ) 、吉良氏と婚姻関係にあった小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康が関東に入国し、翌19年、家康は世田谷八幡宮の旧領11石を朱印地とした。
明治維新後の明治5年 ( 1872年 ) 郷社となり、この時、社名を宇佐神社と改めたましたが、太平洋戦争後、もとの世田谷八幡宮に復しています。
毎年9月の例祭に境内土俵で催される奉納相撲は、世田谷の恒例行事として親しまれています。
平成27年3月 世田谷区教育委員会
こちらも吉良の名が出てきている。
前述したように吉良の何代目から世田谷に住むようになったかは、諸説ある。
当時の吉良家当主でさえ生没年が不明だったり、記録が煩雑なのが理由。
そんな吉良氏の足跡をたどるには寺社仏閣への寄進の記録を参考にすることが多い。
吉良政忠や伯母の名も、豪徳寺の基となる庵を、政忠が伯母の菩提として作ったことだったし、
吉良頼康の足跡も、世田谷八幡宮の社殿を修築造営し、備前雲次の太刀を一振寄進したことでわかった。
この他、当時の吉良家では亡くなった血縁者の為の寺や神社を多く建立している。
勝光院や勝国寺がそれで、そんな寺社仏閣の建立・寄進等の記録をつなぎあわせて、
吉良の人たちがやっと見えてくるというのも何だか複雑な思いがする。
吉良家について
吉良家は東條吉良 ( 武蔵吉良とか世田谷吉良とか奥州吉良ともいう ) と
西條吉良 ( または三河吉良 ) とに分かれている。
東條・西條とは三河国吉良荘の中央に矢作川が流れていたことから、
東岸・西岸の吉良家を分けて称したらしい。
因みに、有名な吉良上野介は西條吉良氏。
下は、足利義氏 の本宗家と庶流を図にしたもの。
足利義氏には5人の男子と、3人の女子がいた。左から年長者。
※ 義継の生誕は不明で 三男または四男とみられていたが、吉良氏が惣領の庶子であることからご一家に加えられた経緯からして泰氏、長氏の兄とする説が有力。
吉良氏も斯波氏も渋川氏も、当時は「足利」の苗字で、同じ足利氏を構成する一族として存在していた。
義継も長氏も、惣領を泰氏に譲ったものの《泰氏の兄にあたる血統》という点が、後世にまで彼らの家格の高さを保証する要因となり、「足利家に後継者が絶えた後には吉良家より将軍を迎え、吉良家が絶えた後には今川家より」といわれ、吉良家は他の戦国大名から一目置かれる存在だった。
東條吉良の改姓
東條吉良は「蒔田」と改姓していた時期がある。
徳川家康から「吉良姓を継承するのは本家だけにせよ」と命じられたから、とされているが、自主的改姓であるともいわれる。
「蒔田」から「吉良」に戻ったのは、本家 ( 西條 ) 吉良が赤穂事件でお家断絶になった後だった。
世田谷八幡宮は、豪徳寺ほど人の出入りはなく、ゆっくりと参拝できた。
境内も綺麗に清められ、良い空気が流れていた。
特に目を引いたのは、土俵と厳島神社だった。
お池に鴨と鯉
立派な土俵だわ、
世田谷八幡が建立され、八幡大神様を盛大にたたえるため相撲が奉納された。
その名残で現在でも秋祭りの神事として相撲が行われているそうです。
(奉納相撲が行われる秋季大祭は、9月敬老の日前の土・日の二日間)
手水舎に美しい花
写真が見切れてしまったが、上からに「奉納 鈴木花店」と書かれた半紙が下がっていた。
お花は、世田谷宮坂のお花屋さんから届けられているようだ。
東條吉良氏のとてもわかりやすい系図があったのでお借りしました
本日の夜ごはん
お昼の写真がないけれど、ツナマヨパスタを食べたのねきっと。。。
三品盛りにこんなのがあるもの ( ´艸`)
なんだか細長いものばかりだ
参考文献
小田原北条家と世田谷吉良家の婚姻について
( 崎姫と香沼姫 )
奥沢近辺の城址と地名の謎② 世田谷城址( ⅰ ) | | 土とみどりを守る会 / Okusawa Garden