Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

なんこつ入り 鶏つくね ゆず風味

 

冷凍庫に小分けにしている優れもの

鶏肉専門店-神田染谷の「なんこつ入り 鶏つくね ゆず風味」

練馬に行くと、これを3~400g購入し、小分けにして冷凍。

薄く伸ばしておけば、半解凍したものをスプーンでこそいだだけで、

つくね団子がすぐ出来る。

ゆず風味なので、温かい蕎麦に入れるだけで、極上の鶏蕎麦の出来上がり。

 

 

 

本日の夜ごはん

二人して喉風邪をひいてしまい、ここ何日は早目のご飯、早目の就寝。

わかめ多すぎたかな。

でもまあいいか。鶏肉の出汁を吸ったわかめは、明日に持ち越しても美味しいつまみになるでしょう。

喉が痛いMOURI から「にんにくか生姜の料理が食べたい」と所望される。

わかるよ、じゃ、今日は生姜たっぷりの茄子にしましょう。

ちょっと味が濃かったかも、白いご飯が食べたくなるが、今日はこれでお終いにします。

 

早々に布団に潜り込んで読み出したのがこの一冊

伊沢蘭奢は、大正から昭和の10年間、ほんの短い時期に活躍した女優

年代的には松井須磨子とすれ違っている。

蘭奢は、須磨子の「人形の家」を観て女優になりたいと、夫と離婚し子供を捨て演劇の世界に飛び込んだ。

島村抱月がスペイン風邪で死に、松井須磨子が後追い自殺をしてしまってから、

築地小劇場で東山千栄子が活躍するまでの間の10年間、演劇界をけん引した女優である。

 

当時は、小山内薫や吉井勇が新劇を旗揚げし、

谷崎潤一郎、久米正雄、武者小路実篤、菊池寛といった作家も戯曲を多く書いていた。

映画界では、栗島すみ子や川田芳子が活躍。新劇俳優は演技力を買われて脇役として映画に登用された。

 

須磨子も蘭奢も活動期間としては10年弱と短いが、蘭奢に比べ、須磨子の名が後世に残っているのは「あと追い自殺」というセンセーショナルな幕引きにあるように思う。

 

当時有名だった女優さんの活躍時期を並べてみるとこんな感じ

松井須磨子 1911年 ( 明治44 ) 25歳~1919年 ( 大正8 ) 32歳 活躍期間7年 

水谷八重子 1914年 ( 大正3 )    9歳~1979年 ( 昭和54 ) 74歳 活躍期間65年

伊沢蘭奢  1918年 ( 大正7 )  29歳~ 1928年 ( 昭和4 ) 38歳 活躍企画10年

細川ちか子 1925年 ( 大正14 ) 20歳~1976年 ( 昭和51 ) 71歳 活躍期間51年

東山千栄子 1925年 ( 大正14 ) 35歳~1980年 ( 昭和55 ) 89歳 活躍期間54年

 

 

演劇女優は、映画女優のように映像が残っていないので、彼女の姿は数枚の写真でしか見ることが出来ないが、後年東山千栄子が当たり役とされた『桜の園』のラネーフスカヤの批評をみても、当時の演劇界で賞賛を浴びた人物のようだ。

五月二日から五日間の公演は、期待通りの成功をおさめた。各方面から賞賛が集まり、新劇協会と蘭奢の存在は飛躍的に大きく、輝かしいものとなった。

演劇評論家の八田元夫は、この公演で蘭奢のファンになってといい、<ぼくが行った時は芥川龍之介が見にきていましたが、休憩のとこ、ロビーに出て来て、しきりに伊沢蘭奢をほめていました>と書いている。

 

岸田国士は、

<皮肉でなく、お世辞でなく、僕は新劇協会の「桜の園」を非常に面白く見た。上演者はたしかにモスコオ芸術座の「桜の園」が、どんなものであるかも知っている。少なくとも或る程度まで研究していると僕は思った。この態度は誠に頼もしい態度である。新劇協会が果たして「桜の園」を正しく、⸺言葉がわるければダンチェンコ及びスタニスラフスキイの解釈した如く解釈しているかどうかを考えよう。僕は大体に於て、その解釈の近いことを歓ぶものである> ( 大正十三年六月「新劇新潮」 ) と批評した。

 

中でも最も熱狂的賛辞を惜しまなかったのは、音楽・舞踏評論家の葦原英了であろう。

< ( 築地小劇場が生まれるまでに見た芝居で ) もっとも強烈な印象を受けたのは、新劇協会上演の『桜の園』であった。そしてそこで生涯忘れることの出来なくなった憧れの女優を発見することになる。それはラネーフスカヤ夫人を演じた伊沢蘭奢であった。後に築地小劇場で東山千栄子の同じ役を見たが、私には蘭奢の姿が眼の裏に焼き付いてどうにもならなかった。私には伊沢蘭奢を実際に見た者として、見なかった人に対し、こんな魅力に富んだ素晴らしい女優がいたのだということを、何度も何度もいいたいと思う> ( 『私の半自叙伝』) 

夏木静子著『女優X 伊沢蘭奢』p.157より

 

写真は、東山千栄子さんのラネーフスカヤ