Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

弘法湯 その一

 

年金事務所に行った帰りに、自転車で円山町をぶらついてきた。

円山町エリアは、若い頃にはひとりで歩き回るのをはばかられる場所だった。

ラブホテル街だったから。

もっと昔は三業地だったし。。。

 

そんな円山町も今ではクラブが乱立し、若者たちが闊歩する街になった。

彼らが道一杯に広がり道をゆずってくれないので、違った意味で歩きにくい場所だった。

 

円山町に来たのは、ふたつ見たい場所があったから。

ひとつは、道玄坂地蔵

ここは、東電OL事件で有名になってしまったところだ。

 

もうひとつは、弘法湯の跡地

昨日チラッとアップした昔の弘法湯の写真がこちらで、

 

入口のところに石碑が建てられていた。

左側、正面、右側

  

正面からみて左側には「青山北町一丁目 施主 石屋勝五郎」と彫られている。

正面には「弘法大師 右神泉湯道」

左面には「明治十九年八月廿一日 建立」かな?

 

青山の石屋勝五郎とは、「新撰東京名所圖會」に書かれている人だろう⤵

https://edotokyo.hosei.ac.jp/application/files/2715/9425/8033/2017A_21_1_038_.pdf

●石勝

石勝とは。石屋勝五郎の事にして。山の手にては著名なる石工なり。その事業中嘉すべきものあれば。特に之を記載すべし。石勝は。中村勝五郎と称し。先々代よりの石工にして。工名を國房と号す。祖父は藤四郎。父は伊太郎といい。勝五郎はその末子なり。父の没後家業の衰退に傾くを嘆し。青山墓地創設の際。日夜奮励して事業を営み。遂にこれを回復し。その後宮内省をはじめ緒官衛および著名なの邸宅の石材工事を負担し。家道益々ゆたかに。今は府下の石工中屈指の名声を博せり。所有地間口二十間の内に。材料を置き。工場を設け。平素十数人の職工各その業を努め。切硺の響き四辺に丁東たり。

明治三十五年十二月。墓石の陳列場を設け。同月十三日より開場せり。当日は禅僧数十名を招待して供養せり。かの品川東海寺。高輪東禅寺。広尾祥雲寺等の和尚会し。各自経文を読誦せしという。場内には大中小諸種の石碑を組建置きて。正価を記し。顧客選択の便に供す。その他庭石、石灯篭等も多く。就中棗形の手洗い鉢には。慶安元年の刻字あり。また元和四年の銘ある異様なる石塔の如きもあり。

 

同人は慈善心に富み。貧民のために墓石一千基を施興せんとし諸所に配布せる印刷物には。高さ二尺五寸なる六寸角の墓標に厚さ七寸幅一尺三寸の墓石の雛型を図し。左のごとく記したり。

 

 私議 今般心願に依り右雛型之石碑壱千本無代価を以て慈善寄付致し候間

 御希望之御 方様は至急左之所へ御申込相成度この段広告候也

       東京赤坂區青山北町一丁目一番地

            石材 石工商 中村勝五郎

 

かかる篤志を普く知れる人の少なき故には。未だ満員に至らざるよしなり。

 

石屋 勝五郎さんは著名な石工で、篤志家であったことがわかった。

普通こういった石碑は、何某かの施主が石工に注文して建立するのだろうが、

「施主 石屋勝五郎」とあるように、勝五郎さんは自腹でここに建てたようである。

 

 

 

本日の昼ごはん

 

本日の軽食

 

本日の夜ごはん

なぜかこの一枚しか撮っていない。

先日スシローで食べた青海苔入りのポテトサラダが美味しかったので作ってみた。

青海苔のほか、揚げ玉も少し加えた。

まるでポテトチップのような味だった。