Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

頼高と政忠と弘徳院( ^ω^)・・・

 

前回の記事に対して、たまうきさんから以下のメッセージを頂戴した。

wikiの豪徳寺の項には弘徳院は政忠の伯母、頼高の「娘」とあります。だとすると弘徳院と政忠は兄弟?に。これは頼高の「姉」(「伯母」なので)の間違い? で、それはいいとして、何故、政忠は弘徳院を「伯母」の為に作ったのか知りたいです。
あと、氏朝と鶴松院の墓碑は何処にいったんだろう?^^

 

ウィキペディアには、確かに「姉」と書いてある。

「完全に間違いですね、頼高は政忠の父親であるからして、この文章はおかしいと思います」と私も言いたい。

 

とりあえず検証

ウィキの記事の、参考文献には『江戸名所図会』と『新編武蔵風土記稿』とある。

では、その文献のどちらにこのような記述があるのか。

 

『江戸名所図会』は、

政忠と弘徳院との関係について書かれているだけで、頼高の名は出てこない。

 

 

『新編武蔵風土記稿』を見てみると、こちらは「政忠ノ伯母」「頼高ノ娘」となっている。

 

このことからウィキペディアの記述は、『新編武蔵風土記稿』から引用していると判明。

 

吉良系図をもう一度確認してみると、

吉良頼高が家督を譲ったのは、政忠になっている。

普通であれば、政忠は頼高の息子・長男と考える。

だが、この頃の吉良家の家系図はとてもあいまいで、詳しいことが書かれていない。

政忠に至っては、母親の名はおろか生まれた日から不明なのだ。

 

ということは、

家督をついだから「実の父と息子」と決めつけることも違うかも知れない。

実は、吉良氏の研究本などでは、政忠の没年すら疑っている。

例えばこんな風に

豪徳寺の納骨堂地下には三基の宝篋印塔があり、その銘から読み取れる「文亀二年」「六月●●」の刻銘が政忠の没年だろうと思われてきた。しかし昨今の主要な論拠は、これに疑問を投げかけている。

第一にはこの石造物が移動可能なもので、この寺に伝来されているからといって寺固有のものであると極めてかかることは危険であるということ。

第二にこれらの供養塔が「吉良系図」によく符号することに対し、「吉良系図」そのものの信ぴょう性を疑う考え方もあるからだ。

 

「吉良系図」の方が、むしろ逆に近世になって、先の宝篋印塔などを基いて作成されたものかも知れないと、考えるのである。

つまり、文亀二年六月の銘に合う人物を吉良氏の系譜の上に求め、それを吉良政忠に比定し、そこから彼の没年を文亀二年六月七日と決定されたのではないかと、疑われているのである。

 

 

こうなると、何を信じてよいかわからない

私たちが調べものをする時には、ネット情報よりも、印刷された書籍を信頼するだろう。

だがその書籍でさえ、正確だと決めつけるのは危険である。

著書がそれを書くにあたって参考にするのは別の研究本だったり、古文書だったり、古い手紙だったり、寺社仏閣や先祖の過去帳だったりする。

しかしそれすら考えてみれば、それを書いた人間の勘違いや、誤記、意図的に歪曲した話の可能性だってある。

そうやって疑い出したら、もう、何が真実だかわからない。

 

複数の史料が同じことを言っていたとしても、二つの引用元が同じで、それが間違っている可能性だってあるのだから「多くの史料がそう書いているのだから間違いない」と言い切れるものではない。

 

特に今回の吉良関係は、系図や記録に不明な点も多く謎に満ちている。

だからどこかで腹をくくって線引きをして妥当と思う点を自分で探るしかない。

私が調べものをする時は、とにかく出どころを自分の目で確かめ、複数の史料をつけあわせて、結論を導きだすように留意する。

だからといってそれが正解がどうかはわからないけれど、自分が腑に落ち納得がいけばそれでいいと思うのだ。

 

 

今回も、とりあえず「政忠は頼高の子」として先にすすむことにする

回りくどくなったが、

ウィキペディアにある「弘徳院は、政忠の伯母で、頼高の娘」問題。

これは本当に間違いと言い切っていいのだろうか。

実は「弘徳院は、政忠の伯母、頼高の娘」と書かれた第三の史料が見つかった。

 

萩野三七彦 著『吉良氏の研究』

この中に、こんな記述がある。

 

「それがどうした吉良政忠の伯母であり、頼高の娘であると断定するのであろうか」

ここでもハッキリと「娘」と書かれている。

吉良家の研究本を書いている大先生がこんな凡ミスをするだろうか、

まあ人間だものということもあるけれど。

でも、この関係性がまったく成立しないかを探ってみてもよいかも知れない。

 

ひとつの仮定をたててみた

頼高の娘で、政忠の伯母という関係性はあるだろうかと。

それが、あるんです。

 

頼高がAとの間に、弘徳院をつくったら、頼高にとって弘徳院は《娘》になる。

その後、頼高がAの娘・Bと関係を持ち、政忠を作ったとする。

すると、政忠と弘徳院との関係は、伯母⇔甥であり、姉⇔弟となる。

厳密にいえば、政忠にとって弘徳院は、

実母の異父姉で《伯母》であり、母の異なる《異母姉》となるのだ。

仮にこんな関係で、弘徳院と政忠が幼少の頃から育ったとしたら、

姉のように慕い《伯母》である弘徳院の死を悼んて菩提庵を作るなんて動機になるのではないだろうか。

 

以上、たまうきさんが「何故、弘徳院を伯母のために作ったのでしょうか」というのがヒントになって考察した次第です。

 

 

もうひとつ「氏朝と鶴松院の墓碑は何処にいったんだろう?^^」問題ですが、

まだ私は政忠に引きずられている故、答えが導き出せていませんが、実相院にあるのではないでしょうか。

えっ? それも違うのかな? ( ´艸`)

studioflavor.jugem.jp

 

 

 

本日の昼ごはん

ざるそば

 

 

 

 

本日の夜ごはん

大事にとっておいたう缶つま ( ウニのジュレ ) をあけてみた。

結構高くて、パソコンを買った時のポイントで購入したもの。

ぱっかーん

あれえ、期待してたほど美味しくない 💦 あれ?

ほうれん草とベーコンのバター焼き

ベーコンは脂身の少ない塊を買ってきたのを好みの厚さにスライスして使っている。

脂身少な目、塩分少な目で気に入っている商品。

豆腐には何も乗せない派のMOURI を他所眼に、たっぷりかけてやったぜ。

私はこの方が美味しいと思うけど「そんなにかけちゃ、豆腐の味がしなくなるんじゃない?」とあきれられている。

〆のおうどん

素うどんにかつおと小葱だけのシンプルなのが食べたかった。

食べたいものを美味しいなーと食べられて、

ぐっすりご機嫌で眠れそうです。