徘徊を思い立ち家を出たのが遅かった。
あちこちひっかかりウロウロするのはいつものことで最終目的地になかなかたどり着けない。
まあ、人と待ち合わせをしているわけでもないのでいいけれど。
千歳通りから左にそれて住宅地を歩いていると、鳥の声が騒がしい。
むせるような梅の香の向こうの空にゴマ塩をまぶしたような点がある。
拡大してみると⤵
全部鳥です、すずめかしら。
別のアングルで見てみると、中央の大木の上が動いている。
うほっ! 木の枝の先全部が鳥ではないか!
いったい何百匹いるだろう
この辺りは、今でこそマンションが建ち並んでいるけれど、40年前は畑だった。
そんな千歳村に徳冨蘆花がやってきたのは明治39年 ( 1906 ) 、蘆花が39歳の時だった。
それから20年間、蘆花は晩年をこの地で半農生活を楽しんだ。
蘆花が農業に目覚めたのはトルストイの影響で、ロシアに渡りトルストイの家にも訪問している。
トルストイが土に親しんで生きているのに感銘を受け、自らも「美的百姓」と称し農業にいそしんだ。
蘆花だけではなく大正時代の文人もトルストイに感化され、白樺派の有島武郎の農地解放し、武者小路実篤の「新しき村」の運動をした。
見えてきた。
あの柵の向こうが公園かな。
都立 蘆花恒春園
都立 蘆花恒春園は、蘆花の死から10年後に妻・愛子が東京市に寄贈を申し入れ、
翌年公園になったそうだ。
広大な敷地には旧宅が残っているらしいが、残念 (;^_^A
閉門。
16時30分までだったのネ 💦
開放されている公園エリアには、子供もまだいる。
薄暮の公園もなかなかいい。
蘆花夫妻の墓はこちらですと。
蘆花は死んだら恒春園の雑木林に埋めてほしいと言ったらしい。
徳冨健次郎 墓誌
( この墓に眠る人は、徳冨健次郎といい号を蘆花と称した。)
1868年12月8日 ( 明治元年10月25日 ) 熊本県水俣市で生まれ、父は徳富一敬、号淇水、母は久子、矢島氏の出である。 兄に蘇峰 徳富猪一郎がいる。蘆花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は、広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。
蘆花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心静かに永眠した。数え60歳である。ときに1927 ( 昭和2 ) 年9月18日のことであった。蘆花は生まれつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。
また、与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。蘆花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところであった。
兄徳富蘇峰六十五歳 涙をぬぐいつつ書く。
この墓誌の原文は、蘆花死去の直後に、兄徳富蘇峰によって漢文で書き記され、石盤に刻まれて墓におさめられた。
徳冨愛子墓誌
( ここに葬られているのは、蘆花徳冨健次郎の夫人愛子である。 )
女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改めた。1874年 ( 明治7年 ) に熊本県菊池 ( 偎府) 市に生まれ、長じて東京女子高等師範学校 ( お茶の水女子大学 ) に学んだ。ある日、私のところへ兄原田良八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。
女史は才色ともにめぐまれ、態度はつつしみ深く、精神は、しっかりして動揺することがない。夫婦生活三十四年間、心は一つとなり、相愛し、相たすけた。蘆花が大をなし得たのは、女史の内助によるところが大きい。
蘆花の遺著を整理刊行し、また後々の計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、蘆花記念公園としたのである。
女史は1947 ( 昭和22 ) 年2月20日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年七十四歳、遺骨は蘆花の左隣に葬られた。
兄 徳富蘇峰八十五歳 記す。
原文を刻んだ石盤は五十日祭のとき墓におさめられたという。
蘇峰さんは、実にまめったい。
弟から一方的に何度も絶縁され、臨終の席に和解したいと呼び寄せられた。
エキセントリックな性格の弟の良き理解者だったはずだが、気に入らないことがあれば遠ざけられ、養女に出した娘も出戻された、晩年蘆花は父親の葬儀にも出なかったという。
そんな弟の為にも、蘇峰は追悼文を書き、葬儀をとりしきり、石碑も建てている。
ここにある蘆花の墓の刻字も、逗子にある「不如帰の碑」の刻字も蘇峰の手によるものだ。
更に蘇峰は、蘆花と愛子の二つの墓誌の文章まで書いている。
弟のはともあれ、弟嫁・愛子への文章には少々驚いた。
彼女をとてもたてた文章だからだ。
徳富家は熊本人、当時は男尊女卑の気風もあったはずだ。
以前私は、蘆花、愛子、蘇峰関連の書籍を読んでいたので、彼らの関係はある程度知っている。
そんな私には、愛子に対する蘇峰の文章が、少々歯の浮いたような感じたのは否めない。
だいぶ暗くなってきた。
夫妻の墓の少し手前に、共同墓地から離れてひとつだけ建っている墓石がある。
「石川六郎妻文子之墓」と記されている
※ 写真右は後日撮影したもの
右側には「昭和六年十二月廿七日永眠」
左側には「安らかに眠って あ〇〇〇 ここ〇千歳乃奥津〇〇〇 愛子」
なかなか達筆すぎて判読不能だが、愛子さんが建てたもののようだ。
石川六郎をネットで検索すると一番に、鹿島建設会長の石川六郎氏の名前が出てくる。
だが鹿島の石川六郎氏は年代も違うし、奥さんの名前はヨシ子さん。
※ 六郎氏の生没年は 1925年 ( 大正14年 ) ~2005年 ( 平成17年 )
もうひとり民友社の書籍の編纂を多く手掛けた方で、石川六郎という人がいた。
Webcat Plus によると、こちらの方の生没は1880~1956、たぶんこの方だろう。
関係者の生没年を並べてみる
徳富蘇峰 1863年 ( 文久03年 ) 03月14日~1957年 ( 昭和32年 ) 11月02日 94歳没
徳冨蘆花 1868年 ( 明治元年 ) 12月08日~1927年 ( 昭和02年 ) 09月18日 58歳没
徳冨愛子 1874年 ( 明治07年 ) 07月18日~1947年 ( 昭和22年 ) 02月20日 72歳没
石川六郎 1880年 ( 明治13年 ) 00月00日~1956年 ( 昭和31年 )
石川文子 生年不明明治13年 ) 00月00日~1931年 ( 昭和06年 ) 12月27日
石川文子さんが亡くなったのは1931年。
愛子が、蘆花没後に夫の書籍整理をしている頃と重なっている。
石川六郎という人が民友社等の編集の仕事に携わっていたことから考えると、
たぶんこの六郎さんの妻が「文子」で、石川夫妻と愛子に交流があったのではないだろうか。
愛子が書籍整理する際に尽力した人ではなかったのかと想像してしまった。
参考にさせていただいたサイト
1月19日の朝ごはん
明太子パスタ
1月19日の夜ごはん
カイさんたちに差し上げるために作った鶏スープの残りで作ったスープ
鯖ライスなるものは、LUIのもの
ターメリックライスに、ニンジンサラダとサバとレタスが乗っている一品
ソテーしたサバには、トマトソースとチーズがかかっている。
このトマトソースが優しい味で美味しかった
追記
帰りの写真
祖師谷団地
なんでこんな写真? というと電灯が渋いの
シュワッチ
ウルトラマンの目になっているのです