堺事件について、大岡昇平さんが書いた「堺港攘夷始末」を読みましたが、
てこずりました。
何日、かかったかしら。
なかなか進まない理由がこれ。
漢字カタカナ混じり文です。
明治の頃の公文書は殆どがこの《漢字カタカナ混じり文》で、
この本は、当時の関係者の日記や始末記などの引用が多いので、
ところどころにこういう文書が掲載されています。
すすまないんだな、これが
これは、堺市史に所収されている、箕浦猪之吉日記です。
国立国会図書館デジタルコレクションなどで原文が読めます。
読みたいが、てこずるてこずる。
ここまで苦労して資料に目を通す必要があるかどうか迷うところですケド。。。
堺事件は、森鴎外の小説『堺事件』を読んだのが始まりで、
その鴎外さんの小説を、大岡さんが酷評してるというので続けて読んでみたのがこの本。
基本わたしは、小説は《かならずしも史実通りに書かねばならぬものでもない》と思っていますが、
今回の題材がフランスと日本の衝突で、22人の若い命が失われた事件なので、
事実関係をねじ曲げてしまうのは問題があるのかも知れないとは思います。
森鴎外の『堺事件』の下敷きにしたのは『泉州 堺土藩士 列挙始末』
事件の当事者で、切腹を言い渡されたものの 当日 刑をまぬがれた土居 ( 八之助 ) 盛義や、切腹した箕浦隊長の親族の話を、著述家の佐々木甲象が書き下ろし、高知市が発行したものだそうです。
大岡さんは『泉州 堺土藩士 列挙始末』のことを、以下のように書いています。
発行人の土居盛義は生残りの一人八之助で、箕浦猪之吉の親族らしい清四郎が加わり、著述家佐々木甲象が書き下ろしたもの。
明治20年来、事件の顕彰、靖国神社合祀運動は貴族院谷干城を中心に進められていた。
『泉州 堺土藩士 列挙始末』はその一環として出版されたもので、それだけにその記述には粉飾があり得るが、彼我文献と比べれば、当事者の談話として、おのずから真実を伝えている部分もある。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.135より
森鴎外は、この一冊だけで『堺事件』を書いたというので、そこは問題かも知れない。
しかし。
「高知市が、事件の顕彰、靖国合祀運動の一環として出版されたものだけに、粉飾があり得る」というのも、かなり偏見に満ちた書きようだと思います。
「史実を曲げている」と大岡さんが主張するのは、例えばこんなこと
- 土藩兵がフランス人を攻撃したのは「堺に無断上陸したフランス人が市中を遊び歩き、女子を捉えてからかい、寺社仏閣に無遠慮に立ち入る などの行為をし、手真似で帰れといっても聴かず、町家の戸口に立てかけてあった隊旗を奪って逃げた」ことが原因であると主張しているところ。
- 切腹の現場に置かれた ( 遺体を入れる ) 瓶に、土佐兵たちが入ってみたりしているエピソード
- フランス公使が11人切腹したところで退席したことを「惨憺たる状況を目撃するに忍びないから」という風に描いていること。
大岡さんは、これに対しアーネスト・サトウの『一外交官の見た幕末日本』をはじめとする多くの文献を読み、それを引用する形で異論を展開しています。
《膨大な文献を検証する》行為そのものは、たいへん素晴らしいことです。
しかし。
『堺港攘夷始末』の大岡さんの主張は、私にとって説得に足るものではありませんでした。
何故なら、大岡さんの論理に、結論 先にありきと思われる箇所があるからです。
いくら沢山の資料を列記しても、そこからどれを正解とするかは、その人の裁量にかかってきます。
資料が同じ答えならいいですが、今回の資料はあいまいな記述も多く、書いた人間 ( 国や藩 ) の立場によって言い分が全く異ります。
例えば、時刻ひとつとってもまちまち。
切腹予定時刻についての記述を見てください。
日本側文献には切腹予定時刻を十二時としているものが多いが、
伊達宗城の手記「御手帳留」二月二十二日付には「明日処置第二時頃より」とあり、
アーネスト・サトウの「日記」 ( 萩原延壽「遠い崖」780回 ) にも「午後二時」とある。
土佐藩筆頭家老深尾鼎の堺到着も十一時で、十二時では忙し過ぎる。
午後二時執行が適当と思われる。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.280より
この記述の中から最終的にどれを正解とするかは大岡さんの判断になるわけで、
大岡さんの主観・裁量が入り込む余地がある訳です。
それでは、読み手が100%納得するような方向にいざなっているかというと、私にはそう思えません。
大岡さんの論理の展開に、偏見や思い込みが見え隠れしているからです。
そもそも論だが、参考にする資料文献は信頼できるものなのか?
「書物に書かれた歴史というのはあくまで氷山の一角に過ぎない。
しかもその時々で権力を持った者が、好き放題手を加えている可能性も大いにある。
そう考えると真実なんてどこにあるのかわからなくなる。
世の中には人目に触れずに消えていく隠された歴史が死ぬほどある。」
これは、映画『プリンセス・トヨトミ』で学者役の江守徹さんが言ったセリフです。
太古の昔から、史実は勝者によって作られる。( 塗り替えられ、改ざんされる )
残念な話ですが、現在の公文書改ざんという酷い話も同じことでしょう。
そういった資料のどれを信ずるに値すると言えるか というと難しい。
正解を導き出すのは不可能です。
大岡さんもそれは認めていらして、文書の不正確さについて色々書かれています。
なお負傷者を出しただけなのに、責任者が割腹させられたのは屈辱だから、公式記録『復古記』は外国兵死者二人とし『明治天皇記』もこれを踏襲しているのだからいけない。
池田藩側の現場証人「高須七兵衛聞書」に「二人打留」とあるのは、発泡したのに手傷を負わせただけでは体裁が悪いので筆が滑ったものであろう。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.40より
ロッシュ自身の本国向け報告は、三つの会見の日付を区別せずあいまいなものだが⸺一体、ロッシュの報告は自分の都合のいいことばかり並べた不正確なものが多い、という ( 萩原延壽「遠い崖」763回以下。 )
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.128より
この段の書き出し第一行が、前行末の句とうまく続かないのに注意された読者もいるだろう。
『堺市史』本文では、ここは改行になっているが、前行の「忘然とした事也」の下には三十三字空白になっている。少数の欠字、虫食いなどは□印で示してあるが、長い欠字、決葉は、監修者三浦周行と編者たちの判断で、記載不適合とみなした文字は空白として形跡がある。
『堺市史』第六巻の編纂は昭和四年であるが、ここにはなにか朝廷の対応を批判した激越な文字があったのではないか。
例えば外国兵選挙は攘夷鎖港の好機なり、直ちに在坂兵力を以って痛撃すべし、そもそも前年の開港勅許が誤りであった、のごとき。
~中略~
ただし「箕浦日記」は遺族へ渡されたはずであるが、その前に藩の目付の削除、もしくは遺族の遠慮などによる可能性もある。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.78より
その場の立場で、自分の都合の良いように答弁することは人間ならばあり得ること。
もし土佐藩の兵士たちがそうだとしたら、対するフランス側のロッシュ大使も同じ。
私はこの本で、森鴎外の小説や底本の『泉州 堺土藩士 列挙始末』が嘘っぱちだということを、大岡さんがどう立証しているのかに興味を持ち読みました。
しかし結果は確たるものでなく、多分に氏の憶測であるとわかりました。
大岡昇平は論争家であった
Wikipediaによると、大岡昇平さんは論争家であったそうです。
森鴎外『堺事件』だけでなく、多くの作家の歴史小説に対して「史実を改変するものだ」として批判をしていたようです。
論争家
「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。
井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。
同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』1962年(昭和37年)8月号上で論争した。
松本清張の『日本の黒い霧』等の作品を謀略史観に基づくものとして批判したり、中原中也の評価について、篠田一士と論争したこともあった。
また江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』が出た時もこれを厳しく批判し、
次いで森鷗外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者と論争になった。
そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。
本作が未完のまま大岡は急逝し、ほぼ9割は完成していたため、中央公論社から刊行された(のち中公文庫に収録)。
Wikipedia『大岡昇平』より
歴史小説が、ちょっとでも史実と異なるのを許せなかったんですね。←いいと思うけど、凄いこだわり。
上記に「自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。」とありますが《明らかになった》と、言い切ってしまっていいのでしょうか。
確かに、森鴎外が底本とした『泉州 堺土藩士 列挙始末』を、信用にかけるものと評しているけれど、大岡さん自身、絶対に間違っているとは言い切っていません。
しかし、ここまで多くの資料を調べ尽くす大岡さんの熱意は凄まじい。
その不整合さを見つけ出す労力は凄いと思います。
特に「堺の町に外国人が入ってはいけなかった」という話が間違いだったことを、
当時の公文書から掘り出したのは見事です。
それまでは堺に外国人が乱入したということが騒動のキッカケとされていましたが、
大岡さんが調べたことにより《堺が外国人が自由に入れる場所であった》という法律を、
土州軍監府の杉紀平太も、箕浦元章隊長が《知らなかった》ということが明らかになりました。
それがわかる資料がコチラ⤵
『法規分類大全』第一編外交門 第四 開港開市
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994197
大岡さんは、こちらから、事件前年に制定された大阪表外国人貿易井ニ居留スル規則節録 ( 慶應3年12月7日 ) の規則を見つけ出し、当時の堺が《大阪在留外国人が遊歩できる地域》であった事実を証明されています。
件の『法規分類大全』には、下の地図も付録されていたことも突き止められ。
原図には堺付近が点線内で囲われていないので、
点線と地名を書き足して解説されています。
この執念は凄い。
大変ご苦労して、調べ上げている一方、
ちょっとした偏見も垣間見られ、好みで片付けられる傾向があるのは残念です。
例えば、以下の文書については手放しで賞賛しているのに、
内山正熊『神戸事件⸺明治外交の出発点』は、事件に関する最も新しくすぐれた研究で~。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.32より
もう一つ外国側の文献がある。それは文久年間からヨコハマで英字新聞「ジャパン・ガゼット」を出していたジョン・レディ・ブラックが1880年にロンドンで刊行した『ヤング・ジャパン』で、東洋文庫 ( 1970年 ) の三巻本で翻訳されている。その第三巻十七章 ( 1868年・明治元年 ) が、「堺事件」を扱っている。
新聞記者が複数の当事者に取材したものと思われる。
ロッシュ公使の言明を尊重しているが、兵庫副領事ヴィヨー、パークス英公使、英艦オーシャン号士官にも訊いているらしく、あるいは最も客観性のあるものかもしれないので、重複をおそれず左に転載する。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.147より
気に入らないものには、容赦ない。
ところで日本側の記録は、佐々木甲象『泉州 堺烈挙始末』が最も有名だが、
其日の暮時の頃、忽然として港の方にあたり、一道の殺気天を衝きて昇るよと見る間もあらせず、にわかに糸屋街頭物騒がしく、ニ三の市人あわただしく土藩下陣へ駆入りて、一大事起これりと呼ばるにぞ、両隊長急ぎ立出て何事ぞと、問ふをも待たず仏蘭西の、水兵天保山沖の本艦より二十艘の端艇に乗り、無遠慮にも当港口へ、漕ぎ入れ矢庭に上陸し、市中に於て乱暴すること甚だし、急ぎ出張をと云ふ声ふるひ気は喘げり。といった講談調で、問題にならない。
生残りの土居八之助の聞書きによっているにしても、口述のように土佐警備隊は口を合わせているのであてにならないのであるが、時が経つにつれて、事実が神話化され、誇張される。しかも処々経験者のみ知り得る細部が混ざっているから、扱いに困るのである。
大岡昇平著『堺港攘夷始末』p.154より
私は、ここまで酷評する、というか、決めつけてこき下ろす理由がわからないんです。
人は人でいいでしょう。
自分が信ずる道を究めて自分の小説を書けばそれでいいと思うのだが、大岡さんはそれでは駄目らしい (;'∀')
『堺港攘夷始末』は小説なのか史伝なのか
巻末の菅野昭正氏の文章も、興味深いものでした。
「歴史が小説になるとき」というタイトルで、本書を賞賛しているのですが、
私の意見・感想とは真逆のものでした。
100人いれば100通りの考え方や感想があって当たり前ですが、
何に驚いたかというと、本書の位置づけが《小説》だったことです。
てっきり私は史伝なのかと思っていたから。。。
様々な文献をひもとき、引用されているそのスタイルと「わたしには〇〇に映る」という表現に、
よもやこれが小説だとは 思いもしませんでした。
論文とか史伝としてなら素晴らしいと思いました。
しかし、これが小説と位置付けされるなら、大変にお粗末な小説に思います。
森鴎外、井上靖、海音寺長次郎の小説の方が遥かに美文であり、表現力の豊かさ、世界感の大きさを感じます。
大岡さんは、この作品を箕浦猪之吉を主人公に書き始めています。
主人公が儒学によって藩に仕える家に生まれ、文筆によって禄を食む境遇にありながら、堺の警備隊長となった彼の悶々とした想いや感情をもっと豊かな筆で描いて欲しかった。
大岡昇平さんなら、折角調べ上げた材料をもって、箕浦猪之吉をテーマに若者の葛藤を描いた唯一無二の物語が描けたのではないかと思います。
そんな作品があったらいいのになぁ、そんなことを考えながら、
ひとまず堺事件はこの辺で終わりにする次第です。
本日の朝ごはん
味噌ラーメン
本日の夜ごはん
昨日と同じようなものが食卓にならぶ。
「美味しい、毎日食べたい」と言ってたのでまた作ってあげました。
今日のは、大葉入り
これも昨日と同じ。
今日のはセロリ入り。
〆に、マルちゃんの天ぷらそば
お箸をフレームインしたのは、少量だとわかるように。です。
ひとつを半分こしましたの。
それにしても最近、全部《マルちゃん》だ。。。