昨日修理した本の、ページ落ち、治りました。
ちょっとばかり、ツレましたが、初めてなのでこのくらいは良しでしょう。
のどの部分もキチっと固まっています。
これで「歯車」と「ある阿呆の一生」が読める。
「歯車」は、筑摩現代文学大系の全集で読んでいましたが、
古書で読むのと、全集で読むのとでは味わいが違う気がします。
どう違うかっていうと、、、、
全集だと資料的に脳に刻み込まれる。古書だと胸に刻み込まれる。
感覚の問題ですかな。
ところで。
最近の読書は、前にもまして乱読+併読です。
今は、ハーディの別翻訳3冊の比べ読みをしながら、
合い間に田牧大和さんの「鯖猫長屋 ふしぎ草紙」を読んでます。
150年以上昔のイギリスと江戸を行ったりきたり
鯖猫長屋は、肩がこらない読み物で、賢い ( 偉い ) 猫が出て来るから面白い。
ハーディは文章も巧いし、ストーリーも一篇一篇バラエティーに富んでいるから飽きません。
そして面白いことがひとつ。
ハーディの本は、同じ話でも翻訳者によって別の面白さがあるんです。
今、気に入っているのは森村さんの訳です。
旧漢字旧かな遣いなので慣れるのにちょっとかかりますが、古い訳なのに味わいが深いのです。
森村さん訳の「月下の惨劇」を面白いなあと読んでいる内に、あれっ?この話前に読んだと思うものがありました。
タイトルが違うので読むまで気がつかなかったのですが、
森村版「月下の惨劇」に収録されている「月下の惨劇」と、その前に読んだ 河野版「呪われた腕」に収録されている「羊飼いの見た事件」とは、同じものだったのです。
しかし何故か二つの訳の雰囲気が違っていました。
河野さんの訳で読んだ時には、若い羊飼いの視点で読んだんですが、
森村さんの訳は、羊飼いの上から俯瞰した位置から描かれた、というか、事件そのものが景色の中の一部分のような雰囲気に感じたのです。
日本語のタイトルが違う作品。
河野版 ( 左 ) では「羊飼いの見た事件」、森村版 ( 右 ) では「月下の惨劇」
原文タイトルを見ると、" What the Shepherd Saw "
「羊飼いが見たもの」というんだから、河野版のタイトルの方が近い。
森村版を読んだ時、俯瞰した感じがしたと言いましたが、
そうなると森村訳には《羊飼い云々》と題するより「月下の惨劇」というタイトルの方が似合っているように思えます。
タイトルというのも、翻訳者がどう読んで欲しいという意味合いに反映して付けられているものなのかな、と、ちょっと思ってしまいました。
本日の朝ごはん
うどんが食べたくなりまして、しかも関西風の白だしのうどん
京都のお揚げと、出汁で使ったどんこと真昆布、菜の花が入っています。
つゆは、いつもの出汁に白だしを使いました。
こんなの⤵
テンヨの白だしです。
以前買った、や〇〇の白だしがケミカル臭くて難儀したので買い換えました。
こちらのは「化学調味料 無添加」とあるだけに、自然な風味です。
結構気に入ってます。
MOURI は「不味くはないが、初めての味にとまどう」とのこと。
大阪の味を知らないわけではないだろうに、何故だ。
白だしの味、というより菜の花の味の主張が強いのでそう感じているのかも。
私は、アリだと思いますが。。。