巌谷大四『物語大正文壇史』を読了した。
大四さんの文章はとてもわかりやすく、サクサク読めた。
大正時代の文豪のエピソードが沢山つまったものだった本なので、どストライクの話題にキャーキャーいいながら読んだ。まだまだ知らない作家も大勢登場し、あの人とこの人がここで繋がっていたのかと驚くこともあり、資料として手許に置きたいと安い古本を購入してしまった。
さて今日は、それに関連して
乃木大将夫妻の殉死についての話
「物語大正文壇史」の冒頭は、明治天皇が崩御された時の七人の作家の反応だったが、
芥川龍之介の記述に関して、たまうきさんから興味深いコメントを頂戴した。
芥川龍之介は、当時二十歳だった。
「御不例中に夜二重橋へ遥拝に行った姉が、小学生が三人顔を土にちけて二十分も三十分もおじぎをしてゐたと涙ぐんで話したときには僕も動かされたが其内に御命に代わり奉ると云つて二重橋の傍で劇薬をのんだ学生が出たら急にいやな気になつてしまった」と友人にあてた手紙に書いている。
九月十四日の朝、新聞を開いて、そこに乃木将軍夫妻が殉死直前に撮ったという二人列んだ礼装の写真を見ると、一瞬いやな気がした。何故二人は最後の写真を撮ったのかその気持ちがわからなかった。どこかの店頭に飾られることを意識したのではないかと思った。乃木大将は至誠の人だとは思ったが、その至誠は、自分をふくめて、より若い世代の人たちには通じないものではないかと思った。
たまうき (id:ni-runi-runi-ru ) さんのおっしゃる、殉死当日の写真とは下の2枚の内のどちらかと思われる。
私はこの写真の静子夫人の顔を見て、とても異様な雰囲気を感じた。
静子夫人、というか両者の空気感の違い、温度差の違いを奇妙に思ったのだ。
乃木大将の人物評価
乃木希典についての評価は、「聖将」「愚将」と真っ二つに分かれている。
Wikipediaにも、
「無能・愚将であるとする主張が広まったのは、日本陸軍従軍経験のある作家・司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』『殉死』によるところが大きい。」
と書かれているが、
昨今は、静子夫人の殉死についても疑問視する声があがっているらしい。
周囲が話す夫婦仲や、乃木大将の遺言が主な理由で、
「夫人は自害ではなく、乃木大将の無理心中ではないか」という話まで飛び出した。
夫婦仲については、
周囲の証言で、仲睦まじい様子は見られなかったとか、夫婦の価値観が違ったとか、
姑問題で乃木が静子夫人と子供たちを別居した時期がある、といった話がある。
遺言に関しては、
「遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく」との記載から、
当初、乃木大将はひとりで自刃するつもりであったことがわかる。
では、いつから静子夫人も殉ずることになったのか、
そして、それは静子夫人本人の意思によるものなのか、
真相は定かではない。
小さいころ私は「乃木大将は立派な人物、夫と一緒に自害した夫人は見上げた女性」だと思っていた。
ところが人の印象は変わるもの。
色々な物証、証言、資料を紐解くと、思っていたイメージが揺らぐことがある。
『物語大正文壇史』で、7名の文士が多種多様な反応をしていたことを知り、
乃木大将について、殉死について、もう少し調べてみたくなった。
蔵書にこんなものがあったのを思い出し、手始めに読んでみた。
1980年発刊 (今から42年前 )別冊歴史読本「明治・大正を生きた15人の女たち」
新人物往来社の雑誌。
乃木静子さんに関して、角田房子さんが大胆な切り口で書かれていた。
角田 房子(つのだ ふさこ、女性、1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)
日本のノンフィクション作家、日本ペンクラブ名誉会員。
本名:角田フサ(つのだ ふさ)、旧姓・中村。 1960年代より執筆活動を開始。
精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けた。
Wikipediaより
角田女史は、司馬遼太郎氏をも超える《愚将論》を展開している。
それはそれは歯に衣着せぬ文章で「静子夫人は望まれざる結婚だった」から始まり、
二人の価値観が全く違っていたことや、希典が家庭を顧みなかったこと、
姑問題で夫人と子供を別居させていたこと、などがことこまかく書かれている。
乃木希典と明治天皇については、
「西南役で連帯旗を西郷隆盛の軍に奪われるという失態を冒し、自責の念から自殺をはかるも、明治天皇の優諚に救われたが、酒に沈湎し乱酔狂態の日々を送っていた」とある。
休職し那須の田舎に引っ込み百姓をしていた乃木を引っ張り上げたのも明治天皇で、
「日清戦争から凱旋すると、中将、男爵、功三級金鵄勲章まで与えられている。」とあり、
旅順・奉天の二度の戦いにおいて、思うような成果をあげられなかったことについて、
「乃木は戦争が下手なうえに今度も運が悪かった。参謀本部の作戦指導は杜撰であり」と書かれている。
事実、乃木大将は多くの戦死者を出し東京では乃木の更迭も議されが、これも乃木好きの明治天皇の一声で救われた。
その結果、彼は更迭ではなく陸軍大将に昇進し、戦後の論功行賞で功一級金鵄勲章と伯爵を授けられ、軍事参議官、学習院院長、宮内省御用掛に任じられた。
ここまで明治天皇に厚遇されたのだから、至誠の人たる乃木希典は殉死するだろうと、私も思う。
ただ、遺言にあるように一人で死ぬつもりだった乃木大将が、夫人を道ずれにしたのは何故なのか疑問は残る。
角田女史の記事は、全体的にエキセントリックで、徹底的に乃木大将に否定的だが、
もし記事の中のこの話が事実なら、《無理心中》と論理づける気持ちもわかる気がする。
殉死
明治四十五年 ( 1912 ) 七月三十日、明治天皇が
薨去 された。明治十年の西南役の軍旗事件にさかのぼって、天皇に命を預けていた乃木の死ぬときが来た。天皇は希典より二つ年下の六十二歳、希典より十歳年下の静子は五十四歳だった。
乃木は天皇薨去の日、されげなく門柱の「乃木希典」の表札をはずした。静子は気づいたのか気づかなかったのか、とにかく何の反応も見せた様子はない。
乃木は天皇薨去の直後から二階の居室にこもり、鍵をかけ、書類の整理を始めた。この異状からも静子は何も察知しなかったようである。
彼女は親戚の者に「希典は、せっせと反古を整理しているようです」といっていた。
乃木の自刃は御大葬の九月十三日と決められていたことは確かだが、その数日前、
静子は親戚の者も同席する席で
「相続人を決めておかなければ」といい出した。
「天子さまにさえ御定命がおありなのだから、あなたにもしものことがあったとき、私が困ります」といった。
希典は、ややあって
「何も困ることはない ⵈもし困ると思うなら一緒に死ねばよい」と答えた。
静子は「いやでございますよ。私はこれからせいぜい長生きして、お芝居を見たりおいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」と答えた。
希典は珍しく笑って「その通りだ」と応じ、一同も笑ってしまった。
乃木夫妻が殉死をした当日、乃木邸には静子の姉 馬場サダ子がいた。
そして、意味深な話が書かれている。
馬場サダ子のこの証言が重要視されていたら、乃木夫妻殉死についての話も大きく変わったかも知れない。
そして希典は二階の自室にはいったが、参内の時間が来てもおりてこなかった。静子も二階の居室へあがった。希典は二度、静子は何度か階下におりてきた。最後に、七時四十五分に静子がおりてきて、変わった様子もなく、ぶどう酒を持って再び二階へ消えた。
八時、霊柩が宮城を出る時刻、当時はさぞ静かだったであろう東京の夜空に大砲の音が響いた。
「今夜だけは ⵈ」と聞きとれる静子の高い調子の声が階下に聞こえた。しばらくの静寂のあと、ずうんと重苦しい響きが階下の天井に響き、微かに、苦しそうな呼吸が聞こえるようだった。
馬場サダ子は独りごとのようにいった⸺「静子は死にやったのぢゃよ」
私は、この記事を読んで、思い出した話がある。
アメリカの高校の授業で、生徒を二つに分け、A班に事件を「是」とするニュース映像を、B班には「非」とするニュース映像を作らせた。
取材で得た内容も、使っていい映像も全く同じものだったのにも関わらず、
映像のつなぎ方や、言葉の表現、音響効果により、「是」と「非」に誘導させるものが仕上がった。
要するに。
作り手が「是」と思って作ったものは「是」のように思わせるものに仕上がり、
「非」と思って作った方を観た者は「非」であるように感じさせるということだ。
もうひとつ。
去年放送されたドラマ『アバランチ』
ストーリーの展開もよく、面白く鑑賞したドラマだったが、
よく考えればこれも、ネットを見た人たちが映像やコメントに踊らされて、
アバランチ「是」から、アバランチ「非」へと考えを変えている。
以上二つのことから私は《人は、情報に左右されないでいられるものか》を考えさせられた。
自分はしっかり物事を見極めていると、誰もが思うだろう。
しかしこれが案外難しい。
特に人物評価は、絶対に無理だと思う。
直接会ったことがある人物なら、かなり近いところまでイメージ固めは可能だが、
それでも個人の思惑・立場や、好みが反映される。
会ったこともない人や、過去の人物となれば、絶対に無理だ。
過去の人物や、テレビの向こうの人物のことを語ったものは、全ておとぎ話だと思った方がいい。
乃木夫妻についてもしかり。
証言者の立場や見方があり、忖度もあり、受け手の価値観もあるのだから、
どんな夫婦仲だったのかはわからない。
ましてやどういう気持ちで死を迎えられたのか、なんてことは神さまとご当人にしかわからない。
大切な、ふたつの命が、勝手にとりざたされてしまっているなんて、
この論争を知れば、草葉の陰でお二人は、さぞ哀しく思うだろう。
色々と調べていく内に「あぶないあぶない」と、私は自分のミーハーに危険信号を出した。
角田女史の記事にしても、他の多くのの史料にしても、
ひとつの小説、ひとつのおとぎ話として読んだ方が良さそうに思った。
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本日の昼ごはん
釜玉うどん、好きなもの全部のせ
本日の夜食
体調が思わしくなかったのと、MOURI がウクレレの日だったので、
三合めしを炊いて、全部おにぎりにした。
私は薬を飲む時に、一二個食べ、残りはMOURIがウクレレに行く前に平らげたらしい。
なので、夜食はこんな軽し。