ホーソーンの履歴に面白い記述を発見した。
1854年、50歳 12月
『日本遠征記』執筆を依頼するため、ペリーがリヴァプールにホーソーンを訪ねるが、辞退される。
ペリーとは、日米和親条約を結んだあの黒船のペリーだ。
もしかしたらホーソーンはペリーと一緒に日本に来たかも知れないということ?
それは早とちりだったが、実はこういうことらしい。
ナサニエル・ホーソーンは、アジアはおろか、およそ海外に出ることさえなかった。
50才になる寸前までニューイングランドに留まり、時折コネティカットやニュ ー・ハンプシャーなどマサチューセッツ近隣の地方に、数週間の短い旅に出かける程度であった。
1853年50才の時、時の大統領にして大学時代以来の友人でもあるフランクリ ン・ピアス(Franklin Pierce, 1804‒69)の計らいで、リヴァプール領事としてイギリスに赴任 したのが初めての海外経験である。大統領選挙用伝記『フランクリン・ピアス伝』(Life of Franklin Pierce, 1852)を執筆したホーソーンへのピアスからのご褒美と思われる。
1853年から 1857年までイギリス領事を勤めた後、イタリアに滞在、再びイギリスに立ち寄り、1860年には アメリカに帰国した。その間アジアに足を運ぶことはなかった。
そのようなホーソーンに、しかしアジアの方から近づいてきた。
1854年12月、マシュー・カ ルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794‒1858)が、リヴァプールに領事として滞在中のホーソーンを訪れた時である。周知のようにペリーは、ホーソーンがリヴァプールに渡 ったのと同じ年の1853年に、日本の浦賀に入港、1854年(安政元年) 3 月の日米和親条約により、アメリカ船に薪水、石炭、欠乏物資を供給すべく下田と箱館を1855年 3 月から開港するこ とを約束させた。
この時、日本で収集した資料や見聞録をまとめて出版する意向を持っていた ペリーは、ホーソーンに編纂・執筆を依頼するため、日本からの帰途わざわざリヴァプールに 立ち寄った。アジアがホーソーンを訪れたのである。
日本見聞録出版の意向は、後に牧師で作 家のフランシス・L・ホークス(Francis L. Hawks)によって『日本遠征記』(1856)三巻本と して成就されるが、残念ながらホーソーンの手に成ることはなかった。ホーソーンが断ったからである。
『 ホーソーンとアジア』p.247より 入子文子 著
「ラパチーニの娘」は、ペリーがホーソーンを訪れたこのエピソードより10年前に書かれている。
古くもなく新しくもない、こんな時代に、ちょっとだけ日本とニアミスがあった人物が、海の向こうでこんな話が作ったと知り、なんだか親近感がわいてしまった。
本日の昼ごはん
冷や汁そうめん
この器、何故か冷や汁の時には使いたくなる。
色が薄くてそうめんが映える気がするから。
本日の夜ごはん
唐揚げ食べたいらしい
あとは昨日と似たりよったり て
コメダ珈琲の小倉あんバターが、雪見だいふくとコラボですってよ
アイスの部分がほんのりバター味で、塩味と甘みのバランスがいい。
こういうコラボ商品を見ると、勝手しまいます。