桜の開花までもう少し。
豊橋公園を散策。
地図を見て、右回りに歩きだす。
『徳川家康公腰掛松旧阯 』
徳川家康公は、色々な場所に出かけて腰を降ろされたのか、
日本各地に家康の腰掛石というのがある。
勝利祈願においでになった先のどこそこで「休憩された」という石もあるが、ここには松があった。
木の橋がある。
右に「朝倉川」東に「城下橋」と書いてある。
※ 小さくて見えない方は、クリックしてみてください。写真が大きくなります。
橋の欄干に川の名前が書いてあるなんて、珍しいのではないかな。
朝倉川に沿って歩く。
左手にお城が見えた、あれが吉田城か。
この辺は、住民の方々の散歩コースのようだ。
犬を連れた方に大勢 すれ違い、皆さんから「おはようございます」と挨拶された。
この窪みは、お堀跡 か な? こっちにもお堀跡
川からの高さを考えると、水をたたえない空堀か。
今の季節は緑の絨毯。
対岸の景色も美しい。
さっきの城下橋を渡ると行ける場所かな?
上に登れば、もっと見えるかも。
なんとかと煙は高いところに登りたがるというが w
尾瀬歩きが好きな理由は、それだ。
普段上り下りする階段は、
自然の山やこういうところの階段は、足がツリそうな高さ。
いい運動になる。
ふう。半分まで来た。
いい眺めだ。もっと登ると、、、
吉田城は、背後にこの豊川が流れているので「後ろ堅固の城」と言われていたそうだ。
見晴らし台から左右を見ると、、、
あそこがさっき登ってきた石段。
残念ながら今は、この鉄櫓が復興されているだけで、その鉄櫓も中には入れない。
城越しに豊川を眺める。
足元にスミレ
見下ろすと、あら怖い。
いいのかわるいのかわからない堀の上を歩いてきたら。
吉田城址の石碑があった。
写真では分かりづらいが、堀の下から5mはある。
こっちの方がわかるかしら。
ほら、高い高い。
現在の地図に江戸時代の城下町を重ねてあります。
この地図上に自宅があったら楽しいだろうな、きっと。
今、どこを歩いてきたかわかって楽しい。
吉田城略史
吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年 (1505) 牧野古白によって築城された。
以来、東三河の要衛として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年 (1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれたものである。