豊橋の街中には、彫刻が沢山置かれている。
駅前のペデストリアンデッキ という場所にも、こんなに沢山ある。
「ペデストリアンデッキ」という言葉、初めて知ったが、
車道の上にある歩行者用の回廊や広場のことをいうらしい。
でも。
「ペデストリアンデッキに、10時ね」なんて、待ち合わせで言う人いるのかな。
話、それた。
今日は旅行記ではなく、野外彫刻についての話をします。
以前、横浜市政策局から発行された『調査季報-80号』 ( 昭和59年2月 ) を読む機会があり、
中でも「都市環境と彫刻」という記事が琴線に触れた。横浜市の街づくりの一環として都市空間に彫刻を置くことを推進するために書かれたレポートで、実態調査を行い野外彫刻のあり方について考えたものである。
その中で、興味深い箇所を書き出します。
「屋外に置かれた彫刻は、美術館の屋内に展示されたときとは別の特別な意味を持っているものです。屋内の場合には、美術館などは実生活とは関わりのないものだという一種アカデミックな考え方にとらわれがちですが、ひとたび野外に出て陽を浴び、雨に打たれ、雲の移りゆきを感ずるときには、彫刻も生活の一部であるということが、よくわかるのではないかと思われます」
( ヘンリー・ムーア。『彫刻の森美術館作品集』から )。
この言葉でもわかるように、屋外に置かれた彫刻は、どこの美術館に置かれたときより存在感があると言えるだろう。
白壁の前に一定の光線を当てられて、画一的な台座の前に置かれるよりも、都市空間を背景に、時間の変化・四季の変化・気象の変化・見る距離の変化 等いろいろなバリエーションが楽しめる。
また、入場料を払い、作品集を買い、手を触れないように監視されながら見るよりも、通勤・通学・買物の途中に見たほうが「お早う」、「お帰りなさい」と話しかけてくれるようで、親近感がわいてくる。
時には、手で触れることもできる。
しかし、屋外であれば、どこに、どんな彫刻を置いてもよいということにはならない。設置場所と作品を厳選しなければ、彫刻公害になりかねない。また、都市は生きており、日々変化している。周辺の環境が変化し、彫刻がその場所に相応しなくなったら、より良い場所に移転させる勇気も必要だろう。
出先で様々な彫刻を目にするたびに、私はこの文章を思い出す。
戸外に設置された彫刻の中には「環境に馴染んでいるか、親しまれているか」を、考えさせる物もある。
どんなに大家の作品でも、その場所にそぐわないものはある。
絵や彫刻は嗜好品であるのだから、公共の場に置くときは難しいものだと思う。
《文化の匂いをもたらしたい》という流れで、ブームのように彫刻が乱立した時期に
《彫刻公害》という言葉が生まれた。
彫刻は、いったん設置したら、よほどの理由がなければ、撤去や移動は難しいから、
《文化の匂い》的な安易な発想だと公費の無駄、街路樹を植えた方が余程いいと思う。
彫刻家-佐藤忠良先生は、生前よくこんなようなことを言われていたそうだ。
この場所の環境が変わって、( 私の彫刻が ) ここに相応しくないと思ったら、どんどん どかして欲しい。木や花と違って、彫刻は公害になってしまうから。
日本を代表する彫刻家のこんな言葉に、私は深く考えさせられてしまった。
豊橋の彫刻が、このまま大切にされたらいいな。
心配は要らないみたい。
あの彫像、犬と馬の手綱があるでしょう?
リボンで補修されてます。
昨夜見た時は、ヒモが切れていたのに。