白雲館を出たら、道の反対側の鳥居をくぐります。
真直ぐ進めば、日牟礼八幡宮ですが、今日は失礼して、手前の八幡堀を散策。
・・・と、その前に。
遊歩道の入口に、興味深い看板がありました。
「近江商人とは」
ちょっと読んでみます。
近江商人とは近江で商いを行う商人ではなく、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、個別には「高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人」などと呼ばれます。それぞれ特定の地域から発祥し、活躍した場所や取り扱う商品にも様々な違いがあるのも特徴です。
そうなんだ。
近江商人って、ここで商いをしている人のことではなく、ここを本拠地として他国で商いをしている人の総称だったのか、、、知りませんでした。
Wikipedia~近江商人 には、近江商人の流れをくむ 主な企業が列挙されています。
大丸、高島屋、白木屋、西武グループ、セゾングループ、伊藤忠商事・丸紅、住友財閥、ヤンマー、日清紡、東洋紡、東レ、ワコール、西川産業、トヨタ自動車、武田製薬工業などなど。
そういえば、伊藤忠商事の 初代-伊東忠兵衛さんは近江湖東の犬上郡出身で、
近江麻布類の行商から始まったと聞きました。
そして。
二代目忠兵衛をサポートし伊藤忠の屋台骨を支えた 伊藤竹之助 ( 旧姓:逸見竹之助 ) さんですが。
この人のことは昨年の夏旅行で知ったのですが、彼は「熊野宿」の出身で、近江で商業を学んだ人でしたから、大きな意味で言えば竹之助さんも近江商人というのではないかと思うのですが、どうなのかな?
更に面白い記載が「近江商人語録」ですってよ。
商人の本務
商人に必要なのは才覚と算用と言われます。しかし、近江商人は巧妙な計算や企てを良しとせず、世の中の過不足を補い、需要と供給を調整することを本務としています。
三方よし
「売り手よし、買い手よし、世間よし」を表します。売り手と買い手の双方だけの合意ではなく、社会的に正当な商いや行商先での経済的貢献を求めます。古くから、企業の社会的責任を果たしてきた近江商人を象徴する言葉です。
いやぁ、面白い。
まだまだ沢山書かれてるけど、全部読んでいたら日が暮れる。
暮れませんが。
先日読んだ「みをつくし料理帖」にあった「三方よしの日」というのもここから来ていたんです。
みをつくしでは、今まで酒を出さないつる屋で、月に3回3のつく日 ( 3日13日23日 ) を
「三方よしの日」とし営業時間を延長し、夕方から酒を出すことにしたら、
これがたちまち話題となり客が押し寄せたというエピソードでした。
その他「質素倹約」「商人理論と販売戦略」「武士は敬して遠ざけよ」「お助け普請」「押込隠居」「薄利多売」「博打・投機的商法の禁止」も、どれも
ごもっとも、なるほど、すごい、とうなづいてしまう。
全てに共通するのは『目先の損得で商いをするな』ということなんですな。
「儲ける為には手段は選ばす」というのでは、長い目でみたらよいことはない。
商人としてのモラルやビジョンがキチンとしているから、近江商人が成功しているのだと感心。
しかしこれは、脈々と受け継いできた教えなんでしょうが、一体誰が最初に考えついたのだろう。。。。
ダメダメ。
気になっていたものだから、つい立ち止まってしまいましたが、
今日は八幡堀の散策だった。
・・・・
なんと美しいことか。
時が止まったようです。
たねやさんのラ コリーナ近江もでしたが、近江の人たちのセンスは素晴らしい。
ここも人工的な水路なんでしょう?
なんと機能的で、美しいことか
多くの時代劇の名シーンがここで撮影されたのもうなずける。
「暴れん坊将軍」「鬼平犯科帳」「剣客商売」「るろうに剣心」
なーるほど。
松平健さんが、吉右衛門さんが、藤田まことさんが、佐藤健さんが、
小舟に揺られている様子が浮かんでくる。
♩ 船頭の ひとさおごとに のんびりと 進む小舟に お侍
うーん、字足らず おそまつ
水郷には 柳が似合う。
絵になる、うん、間違いない。
大杉町 ( おおすぎちょう )
八幡堀の対岸は比牟禮社 ( 現: 日牟禮八幡宮 ) 境内で、元禄町絵図では同堀に架かる宮ノ橋が描かれています。
比牟禮社の門前町的性格を有しており、町名は同宮境内の杉の気に因むといわれています。また、久兵衛町とも呼ばれていたこともあり、これは豊臣秀吉・秀次に仕えた田中久兵衛吉政が居住していたことに由来するといわれています。
元禄絵図か、実物を見てみたいなぁ。
探してみましたがネットでは見つかりませんでした。
代わりにといっちゃ何ですが、興味深い地図が見つかりましたの。
聖心女子大学図書館のデジタルギャラリー にアップされていました。
「近州蒲生郡八幡町惣絵図」とあります。
宝永3年に描かれたというから、当該 元禄町絵図から4~5年後のものと考えられます。
この地図によると、、、、拡大しますね。
地図を見てみると、
大杉町の看板のあった場所は「杉町」で「大杉町」は鳥居の右側のエリアです。
そして更に興味深いのは、杉町と書かれた所の上。
グレーで囲ってみましたが、何か消されたような水色の跡がありましょう?
何かがあって、それを消したものなのか、シミや汚れなのかはわかりません。
でも、もしかしたら看板に書かれている「宮ノ橋」跡なのではないかしら。。。
考えすぎでしょうかね。
でも、古地図を見て、こんなことを考えるのが面白い。
やめられません。
ごめんなさい。
今日のコンテンツは、当日のリアルタイムな記事と、後日調べた資料とが混在してしまっています。
混乱しますよね m(__)m。
じゃ、当日の気分に戻って、もう少し八幡堀を歩いてみます。
この辺りで堀が右に曲がっています。
手前に、建築資材や古い建具が積み上げてあります。
乾かしているのかな?
日に当たり、ちょっとかび臭いような、土蔵に入ったような、古~い匂いがする。
そんな匂いをかぎながら堀端にいると、鬼の平蔵がいた江戸時代にタイムスリップしてしまいます。
そんな心持で、ぼーっと堀を見ていたら「おいでおいで」をしているおじいさんがいます。
何かを売っている様子です。
仕方ない。
目があってしまったので近づいてみると、ポン菓子が並んでいます。
ポン菓子か、懐かしいなあ。
湿気させてもいけないから、一番小さいのを、そう、その100両のをください。
おじいさんは、ロケに来た俳優さんたちのスナップ写真のアルバムを見せてくれました。
承諾を得て一緒に写っているのもあり、遠くから隠し撮りしちゃった感の写真もある。
知らない内に撮られて、皆に見せられてしまうんだもの、有名人も気の毒だ www
もし私が女優だったら ( そんな例えは・・・ナンデスケド ) ちゃんと撮られたいな。
撮られてると知らず、気を許した顔の写真が一生見せられ続けるなんて、、、嫌だ~。
八幡堀の左のエリア、この辺りがナイスロケーションの終点くらいみたいです。
休憩所の脇に看板がありました。
この八幡堀を作ったのは豊臣秀次だったようです。
堀は城を防御する目的と琵琶湖からの荷船をここに寄港させるためでした。
秀次は、父 ( や信長 ) にならって、この城下町にも楽市楽座を取り入れました。
近江商人の繁栄の源は、豊臣家にあったのですね。
こうして多くの近江商人が全国へと旅立ち、昭和30年ごろになると生活も変化していきました。
次第に市民の関心も八幡堀から離れ、堀の水質は悪くなりました。
やがて、八幡堀はドブ川のようになり、埋め立てられようとしました。
昭和40年代後半 ( 明治橋からの風景 )
市民が立ち上がりました。
「八幡堀は埋めた瞬間から後悔がはじまる」を合言葉に、清掃活動が始まりました。
かつてドブ川のようだった堀も、今では写真や絵画の愛好家が訪れ、時代劇のロケ地としても頻繁に使用されるなど、市民や観光のシンボルとして復活。
近江八幡に来て思いました。
ラ コリーヌ近江、八幡旧市街、八幡堀と全てが絵になる景色だと。
でもそれは偶然ではありませんでした。
近江八幡の人達が、町をあげて景観づくりに気をつかっていたからだったんです。
つづく