翌朝、出発までの短い時間、長浜の街を散歩することにしました。
・・・・と、その話をする前に。
ホテルでちょっとしたハプニングがありましたの、聞いてください。
私たちの部屋は、セミダブルの大きなベッドでした。
ベッドの向きの関係で、通路の方に30㎝ほどはみ出していたんですね。
このお部屋、出入り口の方 ( バスルームに行くまでの間 ) に行くと、
センサーで入口付近の照明が自動点灯する仕組みです。
初めてのホテルで、夜トイレに行くのには便利です。
ところが。
そのセンサーの範囲が広いのです。
寝ている私の足に反応してしまうのです。
寝ている私の、この足に反応して照明がついてしまう。
足を縮めて寝るしかない。
でも、寝入ってしまい、足が伸びると、また点灯。
一晩中、その繰り返しでした。
夜中に笑いがこみあげてきて、ひとり大爆笑。
隣のMOURI は、高いびき。
大きくて広いベッド、こんなところに落とし穴があろうとは。
やれやれでした。
部屋からの眺め
斜向かいに見えるのが琵琶湖。
右の方には、長浜城、(笑) 、というか長浜博物館。
目の前は大きな道路でしたが、ウルサイなんてことはなく快適空間でした。
さて。
バイキングの朝食を食べて
ちょっと散歩をします。
ホテルの裏手に橋があったので渡ってみました。
左奥のうっそうとした敷地は、慶雲館。
フェンス越しに美しい和風の庭が見えます。
是非立ち寄りたいところですが、まだ 8時前だから開いていません。
橋の下で釣りをしている方がいます。フェンスの所には白いにゃんこ。
彼の飼い猫さんなのかな、
ひとまわりしてホテルに戻ってきた時もずっと彼にくっついていました。
あの家、素敵。
洋風の “The Funaitabei” って感じ。
長浜の町に似合っている。お洒落。
橋を渡って振り返ると、ホテル ( オレンジのビル ) が見えた。
ところで、街のいたるところに「従是北長浜領」とかって書いてある石柱があります。
橋の向う側にもあったけど、何だろう。
JRの線路をくぐります。
この道、やたらとジグザグしているけど、なんでかしら。
広場に出た。
あそこにも小さな祠。
「船町会館」と書いてあります。
町内 ( 船町 ) の集会場なんですかね。
「猩々丸 ( しょうじょうまる ) 子供歌舞伎稽古場」
「猩々丸若衆詰所」
そうなんだ。
猩々丸というのは、この地区の曳山の名称のようです。
長浜の曳山のことは昨日まで知らなかったのに、こうやって実際の稽古場を見つけたりすると、
親近感が沸いてきます。
船町の曳山-猩々丸は、船町組にちなんで御座船型なんだそうです。
写真は、長浜博物館のHPよりお借りしました。
この他、正面からや斜め前からの写真、見送り幕などは⤵で見られます。
何だろう、曳山が見たくなった。
因みに猩々丸の出演は一昨年だったので (三 年に一度というと ) 来年 (2018)に出番が回ってくるみたい。
見に行きたいなぁ。。。。
あら、この家はまた豪華だこと。
表札を見ると、下郷さんの名前と「鐘秀館」とあります。
家の角に、案内板がありました。
船町の歴史を伝える「馬通り」の石組
この鐘秀館がある下船町は、元治元年 ( 1864 ) の「長浜切絵図」によると米川水路を利用した船持や船大工が多く住んでいました。
下船町が含まれる瀬田村の庄屋であった嶋田左近右衛門邸の「馬通り遺構」とみられる石組が平成二十年 ( 2008 ) 当館建設時に出土しました。
この馬通りは邸内西側の米川河口に着いた荷物を、東側の船町通りまで馬車で運ぶための道で両側に石組が築かれていました。
下船町の歴史を現代に伝える史跡として地下保存し、ここにその一部を復元しました。
平成二十三年四月吉日 財団法人 下郷共済会
当時の切絵図 ( 模写 ) に鐘秀館を重ねてみました。
ああ、楽し❤
石組はたぶん、当時と雰囲気が違うでしょう、けれど
ここにこんなのがあったというのは大事だし、ありがたいですね。
ホテルからここまで、期せずして「馬通り」を歩いてきたことになる。
(*´▽`*) なんか楽しい。
ニコニコしながら歩いていたら、まるい食パンという看板を見つけました。
うわぁ、残念。
7時からっているというのを知っていたら、朝食をこのパンにしたかった。
無念。リサーチ不足でした。
下船町の辻に出ました。
この道 ( 北こく道 ) を北に進めば、昨日最初に着いたガラス館の駐車場に通じる。
ここは本格的な船板塀にべんがら格子ですね。
昨日はこの道を通ったので、今日はまっすぐ行ってみよう。
また、例の「従是北長浜領」の石柱があります。
説明書を読んでみよう。
豊臣秀吉公と朱印地
豊臣秀吉公は、天正2年 ( 1574 ) 頃から長浜の城下町を建設しますが、町屋識年貢を免除して町民の誘致を図りました。この年貢免除の規定は、秀吉公が長浜を去った後も認められ、天正19 ( 1591 ) 5月9日の朱印状によって300石という範囲も確定しました。
江戸時代も、長浜を統治した彦根藩は、秀吉公による年貢免除地を朱印地として追認しました。ただ、それは長浜町全域に及ぶものでもなく、長浜52町の内、朱印地内は35町、朱印地外は15町、両社入組が2町となっていました。慶安4年 (1651 ) には、この朱印地の内外を隔てる石柱が30本前後建立されたといいます。
上図は、江戸時代のものですが、朱印線が「朱」で記されています。
ここに復興した朱印地境界 石柱は、「是 ( これ ) 従 ( よ ) り西長濱領」などと記され、朱印地を「長濱領」と表現しています。現在も本来の位置に建つ石柱は、わずか5本に過ぎませんが、今回の「秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業」では、左図の通り30本の石柱を復興するとともに、13基の解説石碑も設置しました。
なるほど。
秀吉公が長浜の町人たちに人気があるのは、こういう政策をとったからなんですね。
しかしこの朱印地。
変に飛び出していたり、でこぼこしていたりする場所がある。
先の「船町会館」があった場所の切絵図も直線ではないし、
大通寺さんの近くは、こんなにでこぼこ
この朱印地からわずかに外れた場所の人は、どんなだったのかしら。
でこぼこの所に住んでいた人のこと、でこぼこの理由が知りたいが、今となってはわからない。
調べるとなると、、、、、古文書?
うーん、そこまで手を広げたら大変なことになるな。
私には無理です。やめておきます。
長濱領の中には、本当に多くの用水路があります。
素敵な景色。
あれ? やっぱり道場だったのか。
いえね、昨夜この先の路地を歩いていたら、
剣道の練習をしている時の「やーっ」とか「どー」とか「めーん」とかっていう声が響いてきたんです。
お店がそろそろ閉まる20時頃です。
こんな遅い時間に、ここだけ凄い怒号 ( といったらあかん ) が、と驚いたんですよね。
警察の道場だったんですね。
やっ、ここにも石柱あった。
この先がまた面白いエリアでしたよ。
神社の向うに、普通の家と交じってスナックが点在しているんです。
ディープな世界でした。夜通った時には。
何だろう、石標が見えます。
西田天香さんの生まれた家らしい。
ここにも。天香さん下座。???
長浜市名誉市民、第一号とあります。
求道者とある。
帰ってから調べてみようかな。
ここ三回目です。
例の「御坊参道」といったかな。
お花きつねのところです。
ホテルに帰って「お花きつね」のこと、調べました。
やはり地元のおとぎばなしでした。
お花きつねの話、ちょっと長くなりそうなので「次回に続く」とします。
もう十分に長くなりましたけど。(⌒▽⌒)アハハ!
とじ込み ( この下 ) は、下郷さん、鐘秀館のことと、住茂登さんに飾ってあったこども歌舞伎の写真についてです。
備忘録ですから、興味のある方はどうぞという感じです♬
鐘秀館について
下郷共済会は、長浜市田町(朝日町)出身の実業家・下郷傳平久成(しもごう でんべい ひさなり)氏が、明治36年(1903)に設立した財団です。
久成氏と、その父である初代・傳平久道(ひさみち)氏は当時の長浜の有識者の一人であり、また、家業の傍らで長浜初の図書館「下郷共済会文庫」(大正4年[1915])や県内初の博物館「鍾秀館(しょうしゅうかん)」(大正10年[1921])を開館するなど、長浜の教育、文化、福祉の発展に貢献しました。
2007年8月28日付 近江毎夕新聞 記事より
下郷共済会の下郷傳平(壽太郎)理事長が近く、長浜市朝日町の北国街道沿いに、財団事務所を兼ねた所蔵品展示施設「鍾秀館」を建設する。
駐車場「パーキング大新」(旧・文具店大新、長浜漁協事務所)の用地を買収済みで、近く設計に入る。施設外観は明治・大正時代に流行した和洋折衷型となる見通し。
同財事務所の開設に併せ、現在、名古屋市在住の下郷理事長が、長浜市朝日町の下郷家本宅に転居し、財団活動の本格的な再興を図る。
下郷共済会は、米、肥料、油商を経て近江製糸株式会社を創設して財を築き、長浜銀行頭取、貴族院議員などを務めた田町(現・長浜市朝日町)出身の下郷傳平(久道)の「事業で得た利益は社会に還元すべき」との遺志を継いで子の久成が設立した法人。
久成も長浜町長、貴族院議員を務め、財団は下郷家一族の支援で、困窮者救済や、育英奨学金の給付、図書館や運動公園整備に取り組んだ。特に大正天皇即位を記念し大正4年、長浜西本町(現・元浜町の滋賀銀行長浜駅前支店)に開館したステージホール付き図書室「下郷共済会文庫」、翌年、同文庫南西に大阪中之島から移設した明治天皇行幸記念館、大正10年、文庫西側に建設した、鉄筋コンクリート3階建ての博物館「鍾秀館」(現・JAレーク伊吹長浜支店)などが有名。
完成に伴い、現在、元浜町のJR長浜駅前通りと北国街道の交差点角にある「鐘秀館」は閉鎖する方針。
2009年3月23日 近江毎夕新聞記事より
下郷共済会、下郷傳平(壽太郎)理事長が、長浜市朝日町の北国街道沿いに再建していた財団本拠「鍾秀館」が近く完成し、4月4日午前11時から、市長らを招いて落成式を行う。
建物は敷地約390㎡コンクリート2階建て延べ床面積約300㎡で建設。
外装に本レンガを使用した明治時代の洋館風で、財団本拠事務室のほか、財団所蔵の文化財展示室、会議室などを設けた。
設計監理は、近江八幡市を拠点に建築設計などで活躍したウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)が昭和36年に設立した株式会社「一粒社ヴォーリズ建築事務所」(本社=大阪市中央区島之内)。
外壁の色彩や、デザインにヴォーリズの意匠を反映した。
「鍾秀館」は、明治36年(1903年)、長浜に設立された財団法人・下郷共済会が大正10年、長浜西本町(現・元浜町)に建設した鉄筋コンクリート3階建ての博物館(現・JAレーク伊吹長浜支店)。
館名は金属の器「鍾」に、秀でた物品を集めるとする意図や、中国の偉人に由来するなど諸説ある。
下郷共済会は、米、肥料、油商を経て近江製糸株式会社を創設し、長浜銀行頭取、貴族院議員などを務めた田町(現・長浜市朝日町)出身の下郷傳平(久道)の長男、久成が設立した法人。
「事業で得た利益は社会に還元すべき」との父の遺志を継ぎ、久成も長浜町長、貴族院議員を務め、財団は下郷家一族の支援で、困窮者救済や、育英奨学金の給付、図書館や運動公園整備に取り組んだ。
特に大正天皇即位を記念し大正4年、長浜西本町に開館したステージホール付き図書室「下郷共済会文庫」(旧・東映映画館、現・滋賀銀行長浜駅前支店)、翌年、同文庫南西に大阪中之島から移設した明治天皇行幸記念館などが有名。大正10年、鍾秀館は市内初の博物館として建てられたが民間の地域文化センター的な存在だったという。
戦後は財団活動が休眠状態だったが、平成6年に理事会を改組し活動を再開。
初代が構想した社会福祉、文化振興の各種事業を展開する方針。
元名古屋市在住の4代目理事長、下郷壽太郎氏も鍾秀館建設に伴い長浜市朝日町の元下郷邸に転居していた。
財団では、文化財展示室などの一般公開時期は未定としている。
また常時展示はせず、期間限定となる見込み。
館の敷地内には、建設工事前に出土した「馬車道の遺構」の一部も展示する。
住茂登さんに飾ってあった写真について
御堂前組の曳山-諫皷山 ( かんこざん ) の平成11年の演目「彦根権現誓助剱 毛谷村」とあり、10才の男の子がお園役を演じていた写真でした。
18年前に10才といえば、現在28才。
住茂登さんの調理場に男前の若い方がいらしたけれど、もしかしたらあの方 ( ご子息 ) だったのかも知れません。
お店のHP 長浜観光:住茂登すみもと にも写真と実名が乗せられています。
ホームページの写真も、お店の写真も、凄く可愛い役者ぶりです。
こども歌舞伎の役者として選出されるということは、地域の方にとっては、とても名誉なことだと思います。
女将さん、何も知らないで失礼しました。
ルートはこんな感じ。
散歩の時間にまだ開園していなくて、「長浜鉄道スクエア」と「慶雲館」それに「大通寺」のお庭を拝観出来なかったのが悔やまれる。
それから地図を見ると「増田長盛屋敷跡」「山内伊右衛門 一豊屋敷跡」なんかも見逃したなぁ。
もう少し時間があったら、浅井家の墓 ( 徳勝寺 ) や、もっと時間があったら小谷城址なんかも散策したかった。
何気に歴女なんです、あたし。連れ合いは全然興味なしみたいだけど w